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ちひろさんのkuuのレビュー・感想・評価

ちひろさん(2023年製作の映画)
3.9
『ちひろさん』
映倫区分 PG12
製作年 2023年。上映時間 131分。
今泉力哉監督が有村架純を主演に迎え、安田弘之の同名コミックを実写映画化。
共演は豊嶋花。
他には、風吹ジュン、若葉竜也、リリー・フランキー、VAN(中々クールビューティーやし映画の主題になれそう。ちひろさんの友達バジル役)、マダム役にはネコチャン😸、長澤樹(作中、漫画『地球(テラ)へ…』の言及で『キースいいっすよね!私もキース推しっす』と云いながらメガネをあげる瞬間萌えたし、ワロタ。17分目位)、など。
ロックバンド『くるり』の岸田繁が音楽を手がけた。
Netflixで2022年2月23日から配信。
一部劇場で同日公開。

海辺の小さな街にあるお弁当屋さんで働く女性・ちひろ。
元風俗嬢であることを隠さず軽やかに生きる彼女は、自分のことを色目で見る男たちも、ホームレスのおじいさんも、子どもも動物も、誰に対しても分け隔てなく接する。
そんなちひろの言葉や行動が、母の帰りをひとり待つ小学生、本音を云えない女子高生、父との確執を抱える青年など、それぞれ事情を抱える人たちの生き方に影響を与えていく。
ちひろ自身も幼少時の家族との関係から孤独を抱えて生きてきたが、さまざまな出会いを通して少しずつ変わり始める。

有村架純の出演作品はあまり観てこなかったが、こないな可愛い人やと知らなんだ。
姉ちゃんの有村藍里はイロモノパートでバラエティーなどで見かけてたし、同じ毛色かと勝手に思てたが、今作品を観る限りでは正道を歩む女優さんやと好感がもてた。
また、今作品のあらすじを読むと、鮮烈なイメージや考えが頭に浮かぶかもしれない。
多少、小生はその部類で見始めた。
小生が育った町は遊廓でもあり、ちひろさんと同じような元キャリアを持った人が回りには沢山暮らしてた。
思春期、そんな女性たちの噂で聞くと邪な考えが過った淡い気持ちは『三つ子の魂百まで』オッサンにもなっても期待するのかと情けなくもなりつつ視聴。
しかし、今作品はその逆で、言葉ではうまく云い表せないような、何ちゅうかせいぜい隠しておきたいような気持ちを語ってる。
(※作中、小学生には鼻血もののシーンはありますが大人ならキスシーンほどのレベルかな。)
ちひろさんはホカ弁を片手に人々に手を差し伸べるが、それは彼女自身がどれだけ手を差し伸べているかを表している。
普段はなかなか口にすることのない、人生の悲哀が描かれていました。
今泉監督の演出は終始明快で、暖色系の色彩、水面の反射、そして人間だけに焦点を当てたインディーズ映画であることを瞬時に把握することができます。
多くの映画体験が正反対のものの魅力に焦点を当てているのに対し、今作品はその道から外れ、自分と同じような人々、つまり共感し、率直に話し、抑制を捨て、本当に帰属できる人々に注目することを望んでいるように感じてくる。
人は皆、どこに行くにも孤独感を抱えている。
たとえ、それを表現したり、認めたりしなくても、それは常に存在する現実。
今作品の舞台は海辺ちゅうことでメランコリーと慰めという2つの共依存的なイメージをもたらし、ビジュアルも絵空事ではなく、より有機的で、大衆を感動させようとするのではなく、地に足の着いたモンやったしそこが主役になる。
それは映画自体にも云える。
水は乱流も生むが同時に平和で穏やかな流れも生む。
映画では同じものの穏やかなバージョンしか見ることができない。
ただ、ホームレス爺さんの件は(詳しくはご視聴を)れっきとした刑法第190条法定刑は3年以下の懲役の犯罪ですが。
外見は穏やかでも、内面では嵐が吹き荒れているような人間の姿と、このイメージを関連付けるために、哀れな誤謬が用いられている。
これが終盤になると緑の牧草地に変わり、幸せの尺度の感情を象徴的に示しているのが興味深い。有村架純は計算された、しかし、潔い表情で、それを正当化し、云い出せずにいる自分の気持ちの残滓を浮き彫りにすることを中心に物語が展開されていく。
なかなか、演技も演出も巧みでした。
また、カメラは二人だけが同じ側に座り、弱音を吐き合うショットを多く撮影しているようやけど、それは、ちひろのキャラによってもたらされたものと云える。
これに対して、他のシークエンスでは、人々はむしろテーブルを挟んで座ってて、彼らの間の感情的な距離に視覚的に焦点が当てられている。
さらに進むと、各キャラの葛藤が指摘され、この座席配置は三角形や最終的には円形といった他の形に変化し、この『発見された家族』とも見える後天的なメンバーは等距離に置かれる。
しかし、実はそれは彼らを引き離すものではないんだなぁこれが。
このようなことを考慮すると、ストーリーテリングは、人間の感情がそうであるように、非常に直感的で、流動的で、詩的であり、彼らが中心であるさかいに、物語は特定の議題を念頭に置いて押し通そうとせず、ある側面や職業を誹謗中傷することもない(多少高校生が吐くが)。
ストーリーに込められた思いは温かみがあるが、ただ、上映時間はある程度短くても良かったのではないかとは個人的には思う。
魅力的なキャストは微笑ましいが、全体的に型にはまった展開がないのは、万人受けはしないかもしれない。
しかし、印象的なんは、どのキャラも救世主やヒーローとして描かれているのではなく、それぞれの人生に人間らしい重力があり、時には否定的であったり、そうでなかったりするという考え方かな。
今作品を観て、ふと、アイルランドの劇作家、小説家、詩人。不条理演劇を代表する作家の一人であるサミュエル・ベケットの不条理演劇の代表作として演劇史にその名を残し、多くの劇作家たちに強い影響を与えた『ゴドーを待ちながら』を読んだ時の気持ちを思い出した。
戯曲と同じように、今作品のストーリーには主役になるようなアクションやモーションはない。
全ては人と人との関わり合い、そして自分の存在がいかに他人の人生において重要な役割を担っているかを伝えることにある。
ベケットの戯曲がより実存的なアプローチであるのに対し、今作品は温かさと感情がすべてやった。
今作品は、ある人物が深い会話の後、ちひろを抱きしめるシーンに集約される。
ちひろは、その後どうなったかと聞かれると、『あたたかい』と一言だけ答え、さらに激しく相手を抱きしめる。
今作品は、めちゃスローペースな物語に見えるかもしれないが、それもまた、一定の時系列を中心としたプロットではなく、キャラを中心としたプロットであるという考えと関係があるんやろな。
今作品は万人向けじゃないかもしれないが、おそらく、そこが重要なんやと思う。
オールドスクールイズバックと云った感じや、インディーズの濃い雰囲気を持つ今作品は、最近のオーバー・ザ・トップ(インターネット回線によってアクセスできるコンテンツ配信サービスの総称)プラットフォームで配信されるセンセーショナルなコンテンツの多くとは一線を画していた。
特に後半は、心に染み渡るような感動があった。しかし、やはり、誰もがそこまで到達できるわけではない。
今作品は、ある意味、人生そのものの本質を捉えている映画と云えるし、個人的には、有村架純を知り得て、面白い作品でした。
主題歌の『愛の太陽』も中々今作品にマッチしたきょくでした。
どうでもよい余談ですが、小生の昔取った杵柄、手前味噌になりますが、京都磔磔ってライブハウスで、『くるり』の岸田繁(『くるり』やとボーカル・ギター)より年下の小生の方がギター(当時岸田はギタリスト志望やった)アドリブ表現が巧いのと、スピーディーやと近藤房之助に云ってもらったことがある。
何十年たっても『くるり』と聞いたら思い出して話してしまう中二病。。。
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