ヨーク

窓ぎわのトットちゃんのヨークのレビュー・感想・評価

窓ぎわのトットちゃん(2023年製作の映画)
4.4
原作の方は子供の頃に読んだはずなのだが、なにぶん昔すぎて内容はほとんど覚えていなかった。その薄い記憶というのは予告編の内容とほとんど同じで、お転婆な少女が身体の弱い男の子と出会ってなんたらかんたらというよくある感動ストーリー的なものといったものだった。ちなみに予告編ではその身体の弱い子は小児麻痺であるとハッキリ言明されているがそのことも忘れていた。
その程度の記憶だったのでほとんど初見と言ってもいい感じだったんだけど、いやぁ超面白かったですね。『窓ぎわのトットちゃん』というタイトルは知っていても俺にとっての黒柳徹子という人は「世界ふしぎ発見」の人であり「徹子の部屋」のおしゃべりおばさんでありユニセフの親善大使であるという人だった。あと、本当かネタ的な逸話なのかは知らないけど森繁が会うたびに「ヤラせろ」って言ってた人。年齢的にも自分の祖母と近い世代なのでそういう親近感もあったかもしれない。でも本作を観ると、多分原作の本でも描かれている部分なんだろうけど、パブリックイメージとしての黒柳徹子という人間だけでなくて普遍的な子供性とでも言うべきものが描かれている作品でそこがとても素晴らしかったですね。あと、予告編では全く触れられていなかったし原作の本でもその辺の描写がどれくらいあったかは上記したように忘却の彼方なのだが、ちゃんと戦争とはどういうものかを描いた映画になっていてそこも良かった。さらに言うと戦争の中でも、子供と戦争、という部分を描いた映画でもあろう。
お話は当時そんな言葉は無かったか、少なくとも一般的ではなかったと思うが今で言う発達障害児であり中々通常の小学校に馴染むことのできないトットちゃんこと黒柳徹子が非常に実験的かつ個性的な教育を行っていたトモエ学園という、これまた今で言うならフリースクールのような学校に入り、そこで様々な経験を積んでいくというもの。上記した小児麻痺の少年との出会いと友情というのもメイン級のエピソードとして描かれる。
実はこの映画、最近観たばかりだから余計に関連付けて考えてしまうということはあるかもしれないが、先日観たばかりの『ペルリンプスと秘密の森』と非常に近しいものを扱っているなと思いながら観ていたんですよ。『ペルリンプス』の方の感想文にも書いたことだがこの映画は色彩のグラデーションなどが非常に豊かで美しく、それが作品のテーマとして壁や戦争がもたらす断絶を埋めていくように思える、ということなのだが、本作『窓ぎわのトットちゃん』では発達障害を持っていて些か扱いにくい子として描かれるトットちゃんの内的な世界とその外部とのズレが様々な描き方で描写され、やがてそこにあるのは断絶ではなく緩やかに変幻していく他者の存在ではなかろうかと思わせる作品になっているんですよ。そこが非常に非常に素晴らしい映画だと思いましたね。
作中で言われることとして「みんな一緒にね」というセリフがあるのだが、それは字面だけを捉えれば全員で同じ方向を向けという意味にも取られかねないセリフなのだが本作はゆるり柔らかにそれを否定する。自分の内的な部分にある素敵なものが世界の中心だったトットちゃんが「みんなと一緒に」いることによって学んだことは逆説的だが「みんな違う人間なんだ」ということなのである。その部分の表現があからさまで説教臭いようなものではなくて画と音でよく分かるような作品になっているのだ。おしゃべり大好きなトットちゃんが他人のお話を聞くようになったりする。また、他人の話を聞いた上で自分の世界においでよと誘ったりもする。それもさらりとした描写でそのことを描いて見せるのはさすが『映画ドラえもん 新・のび太の日本誕生』を監督した八鍬新之介と言わざるを得ない。
そのように本作は自己と他者の境界を非常に丹念に幾重にもあるグラデーションとして描くのだが、そうすると当然そこにある壁も描かれることになる。特に強調して描かれるのは子供の世界と大人の世界とでも言うべき二つの世界の演出。お風呂場の外で泣くお母さんや怒鳴り散らす指揮者のおじさんや教師の失言を叱る校長先生など、それらは全てドアやガラス窓越しに大人の厳しさや子供には分からない感情の機微を見せたりするシーンになっている。自身の内的な世界の美しさを持ち続けることと共にその外部には何があるのかということも並行して描かれているのだ。そしてそれは戦争というものの描写を持って作品のクライマックスとなる。
『ペルリンプス』でもそうであったように戦争によって行われる敵と味方への断絶。そして生活のレベルでの様々な不自由や統制。みんなが一緒に違う人としてではなくて、みんなで同じ方向を向かせられるということ。直接的な戦闘のシーンこそないものの戦争が国家とそこに生きている人間にどう影響を与えていくのかということが日常生活のレベルでよく描かれていて非常に素晴らしかったです。敵か味方か、白か黒か、だけではない世界の奥行とその世界を如何にして愛するかということが子供の世界を通じて描かれているのである。切り口こそ違うもののそれは『この世界の片隅に』に通じる戦争の描き方であり、同作品に深い感動を覚えた人なら本作もまず間違いなく感じ入るところがある作品になっているであろうと思う。時代考証的な小道具や風景の描写というのも『片隅』に負けず劣らずな出来であったと思いますね。あとはアレかな、焼夷弾の描写はモロに『片隅』を参考にしたんだろうかと思いました。
繰り返しになるが『ペルリンプスと秘密の森』と同じように遊びを通じて世界と交わり、そこでどのように生きていくのかということが描かれた映画で、白と黒に分けられないもの、真四角にして額装できないものが丁寧に映し出されている映画でしたね。だからさ、そういう映画だからあのラストシーンはめちゃくちゃ素晴らしいよな。冒頭のリフレインなので演出の手法としてはよくあるものだけど、大人のようにも子供のようにも見える存在が仕事のような遊びのようなことをしていてさ、トットちゃんはそういう風に生きていきたいって思ったんだろうなというところで終わるわけですよ。ちょっと泣いたよ。
これは非常にいいものを観たなという映画です。途中いくつかあったアートアニメみたいになるシークエンスも良かった。いわさきちひろ風だったり切り絵っぽいやつだったり。かなり強くオススメします。とても良かった。

2023 12/19 追記
とても印象に残ったシーンがあったのに感想文で書き忘れてしまったので少しだけ書いておく。印象に残ったのはトットちゃんが汲み取り式のトイレに財布を落としてしまってそれがお気に入りのものだったので長い柄杓を使って便槽内に落ちた財布を探すというシーンなのだが、当然その汲み上げられた糞尿は校舎の片隅に撒かれるわけである。その光景を見た小林先生が「何やってんだお前」と言うと「お気に入りの財布を落としたから探してるの」とトットちゃんが返す。どうしたもんかと思案する先生だが「探すのはいいけど後でちゃんと(汲み上げた糞尿を)戻しとけよ」とだけ言うのである。生徒の自主性を重んじるトモエ学園の小林先生さすが、となるシーンではあるのだが、ここでは努めて冷静に「後で戻しとけよ」と言いながらもその肚の底ではいくら何でも(このガキ何てことしてやがる…)というまともな大人なら感じて当然の怒りを思わせる声色を表現していた役所広司の芝居は凄かったですね。
でも単に役者の芝居が良かったというだけならわざわざ追記まではしないのだが、その一連のシーンの最後で先生が「財布は見つかったのか?」とトットちゃんに聞くと「見つからなかった」とトットちゃんが答えるんですよ。そして「でもたくさん探したからいい」と続けるのである。これ人生だよなって思ったよ。
この世界なんてハッキリ言ってクソじゃないですか。人類はいつだって戦争してるし社会は不平等や差別でいっぱいだし努力したって報われることなんてほとんどない。ただ受動的に生きてるだけ、正に飯食ってクソしてるだけだったら本当に何も面白くない世界なんですよ。でも、もしもその中に素敵なものがあるのなら? お気に入りになるようなものがあるのなら? クソまみれの世界に素敵な何かを落っことしてしまったらそれを探してみようかなっていう気にはなるじゃないですか。それは人生そのものだなって思うよ。しかもこのシーンではそれだけでなく、結局その素敵なものはクソの山の中からは見つからなかったけど、でも「たくさん探したからいい」とトットちゃんが言ってのけるわけですよ。お前その年齢で悟り開いてんのか? って感じですよ。さらに言うと90歳を過ぎた黒柳徹子の人生そのもののようなセリフにも聞こえる。
このシーンは映画全体の中では小エピソードの一つといった感じだが、最終的には全てが消えていく人生というもの、そして本作でどうしようもなくやってるものとして描かれる戦争というものに抗うための行為のようにも思える。それは最終的には個人では決して抗えないものだろうが、でもやれることはやるのだ。
「たくさん探したからいい」いつか死神がやってきて「死ぬ覚悟はできたか?」と問われたときに言ってみたいセリフである。
ヨーク

ヨーク