ヨーク

首のヨークのネタバレレビュー・内容・結末

(2023年製作の映画)
4.4

このレビューはネタバレを含みます

非常に面白かったです。
初報の時点では、たけしが秀吉をやるのかぁじゃあおそらく天下人になった後の晩年のお話で芸能界の頂点を極めた自分と秀吉を重ね合わせて耄碌していく様を描くのかなぁと思ったが、あれ? 予告編に信長いるじゃん! え? 豊臣秀吉じゃなくて羽柴秀吉? マジで!? ってなって幾ばくかの不安を感じたのだが、いやその不安が霧散するほどには面白かったですよ。流石にもうおじいちゃんにしか見えないたけしが作中で確か40代半ばくらいの秀吉を演じるってのはどうなのよという気はしたが、思ったよりは気にならなかった。
しかし一つ意外だったのは大枠はちゃんと歴史通りの物語を展開をしたことであった。だって秀吉や信長の物語なんて媒体問わずに本当に山のようにあるじゃないですか。そういうありふれた素材でもってあの北野武が映画を撮るっていうのならそんちょそこらにある戦国モノなんかぶっ飛ぶような展開になるかもしれないなと期待半分不安半分で思っていたのだった。具体的に言えば家康が信長存命中に死ぬとか本能寺で信長が生存するとかさ。でもそんなことはなくて、もちろん独自の解釈やアレンジはたくさんあるが基本的な大筋はみんなが知ってる戦国時代の歴史通りに進むのである。と、ここまで書いて気付いたがこれある意味ネタバレだから一応ネタバレ有りにしておくか…。
まぁそんな感じなのであらすじとかも特に書く意味もない。荒木村重の謀反から本能寺の変を経て山崎の戦いまでの織田家臣団の中での身内同士の腹の探り合いと信長の後継の座を狙った権力闘争が描かれる映画である。歴史に詳しくない方にも分かりやすく言えばヤクザの親分が死んだ後の跡目を狙って異なる派閥が巻き起こす生き馬の目を抜くような騙し合いや殺し合いを描いた映画である。そう書くとなんだいつもの北野作品か、という実家のような安心感があるでしょ。
ただその描かれ方というのは非常に面白かったし、感想文の最初に書いた「え!? 羽柴時代の秀吉なのにたけしが演じるの?」という違和感も実際に作品を観てみたらしっくりくる描かれ方をしていたのである。それが何なのかというのは中々一言では説明できないのだが、敢えて言うならば男性的な権力構造の連鎖や螺旋というものに対する外部からの冷めた視線だったり、そこに滑稽さを見い出だす皮肉たっぷりなブラックな笑いであったり、何度も繰り返し語られた英雄譚としての歴史上の人物たちの行いやそこにあるアフォリズムを茶化して虚飾のないちんけな人間として再度描き出すということなのである。そしてそれはビートたけしとして芸能界の頂点に上り詰めた自分を百姓出身の羽柴秀吉に重ね合わせて、そこからの、要は武家のお侍の世界から外れた世界にいる人間からの目線でそれらのことを描き出しているということであろう。そこが非常に面白い映画でありましたね。
たとえば備中高松城の水攻めのエピソードで最終的に清水宗治が切腹することになるわけだが、武士として清水宗治は最後の儀式である切腹を厳粛に執り行おうとするわけだ。映画の冒頭にもあった斬首などと比べたら切腹は武士の最後の誉れですからね。でもそのときの秀吉は本能寺での信長自刃の報を聞いており一刻も早く畿内に戻りたいという状況、武士として最後の花道を飾りたい清水宗治と早く帰りたい百姓秀吉との間で気持ちのすれ違いがあって、あろうことか清水宗治が腹を切る前に秀吉が帰り支度を始めるというシーンがあるのだ。その両者の温度差がギャグとして描かれるのだが、そこには武士と百姓の違いというのが端的に描かれているのである。要は秀吉にとっては武士としての切腹の完遂なんて微塵も興味がないわけですよ。
それは本作の基調として全てのシーンで通底されていて、この映画では衆道のシーンがかなり多めにあるのだが百姓出身の秀吉にとってはその武士の嗜みとしての衆道もよく分からないものとして描かれる。武士として戦場で命を懸け合える相手だからこそ成立する関係性としての衆道も秀吉にとっては異文化そのもの。本作は徹底してそういう武士、もとい男の権力者たちの世界を外部からの目線で茶化すのである。
だがそれだけなら単に面白い作品なのだが、本作が非常に、もう超面白かったと言っても過言ではないのは繰り返すがビートたけしという人が秀吉を演じたということである。上記したように秀吉は侍ではなく百姓として武士の世界に入ったわけだが、それは多分大学を中退して様々な職を経て芸能界に入ったたけし自身を重ね合わせているのではないだろうか。んで今までの世界とは全く違うルールが支配する芸能界というものにずっと違和感を感じ続けていたのではないだろうか。芸能界の中では普通だとされることでも社会一般では異常だぜ、と思いながらその頂点にまで上り詰めたのだとしたら、本作でたけしが秀吉を自分の写し身として選んで作中の年齢とかどうでもいいから俺がやるんだよ! となったのも理解できる。
要は本作『首』という映画は芸能界だろうが武家社会だろうが男性社会だろうが、ともかくそれらを外部からの視点で見たときにそれらはあるときは滑稽に、またあるときは虚無を感じるほどの虚しさと共に、そのグループの中で回り続けている堂々巡りの螺旋を描いた映画で、それらの内輪的な組織の中で起こる暴力の連鎖のどうしようもなさを描くわけである。
だが北野武という監督が図抜けているのはそれらを外部として描き出すというだけでなく、主人公である秀吉も”ちょっと武士の世界はよく分かんねぇなぁ”と思いながらも結局は権力を志向してその世界の中心で力を振るうことに魅せられている人間として描かれているという点である。それは正に自虐と諦観の極致のようなもので、生涯の半分以上を「殿」と呼ばれ続けたビートたけし本人による自らのカリカチュアとしてほとんど完璧に近いものであると思う。
笑うべきか泣くべきかで戸惑っちゃったんだけどさ、中国大返しの一連のシーンの中で渡河するシーンがあるんだけどそこでビートたけし演じる秀吉は文字通りに「神輿」で担がれるんだよ。んで大森南朋演じる羽柴秀長が「あいつが落っこちで溺死したら俺が次の大将だな」とか言うの。最高に笑えるし最高に悲しいよなって思ったよ。
北野武という映画監督はそのキャリアを通じて男性的な社会構造の中で暴力や権力に塗れながら生き抜くことの格好良さも苦しさも悲しさも、様々な生き方を描いてきた映画監督だと思うが、事ここに至って自分が望んでその頂点を目指してきたのか単に担がれてるだけなのか分かんねぇな、という主人公像を提示してきたのである。
その訳の分からなさといったらないよな。でも人生ってのは訳が分からないけど本作での秀吉は良くも悪くも強欲でパワフルで前に進み続けるのである。そしてその根っこの部分には、確かにこの秀吉は百姓出身だわと思ってしまう力強さがあるんですよね。まれびとのように異なる境を越境していって、今まで生きていたのとは違う世界でもどっこい強く生きてける強さを持っているのである。その何かよく分からんけど来れるところまで来てしまったという感じは最終的に秀吉の辞世の句にも繋がるような気さえする。
お侍に憧れるバカの中村獅童が結局津田寛治の亡霊から逃れられないように、暴力や戦争に対する冷めた目線を保ち続けつつ、でもその構造の中で生きてくしかない悲哀を描きつつ、最終的にはしっかりと前を向いていくしかないという映画だと俺は思った。上を見上げるでもなく下を見下ろすでもなく、ちゃんと前を見るためにはしっかり首を据えておかないとなという映画でしたね。
あと、文句というほどではないが本作は織田家臣団がメインとなる映画でありながら柴田勝家と前田利家が完全にいないものとして描かれていたのはさすがに不自然だろとは思ったが、まぁ尺も含めて色々と収拾がつかなくなるから削ったんだろうな。
最後に登場人物はみんな好きだったが、名古屋弁全開で半分くらい何言ってるか分からない狂犬の加瀬亮・信長と人でなしでありながら戦国人生をエンジョイしてそうなオフビート感のある浅野忠信・官兵衛は最高でした。
超面白かった。
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