ヨーク

ペルリンプスと秘密の森のヨークのレビュー・感想・評価

ペルリンプスと秘密の森(2022年製作の映画)
4.4
よく動く形と鮮やかな色彩と楽しい音、それらと共にスクリーンに映し出されるのは光。この『ペルリンプスと秘密の森』という映画はそのようにして始まる。これが非常に示唆的というか、そこをどう受け止めるのかが重要な映画だと思った。
ちなみに本作は本編が始まる前にいわゆるポケモンフラッシュ的な強めの光の明滅があるという注意喚起があるのだがそれはおそらくこの冒頭のシーンだろう。俺は平気だったが苦手な人は目を伏せておいた方が無難かもしれない。しかしこの光というのは作品にとってはかなり重要な要素だと思うな。
それは後述するとしてお話は結構面食らうような唐突さはある。映画は冒頭の光の明滅の後に半人半獣のような生き物が森の中を駆けるシーンへと続く。クラエと名乗る半人半獣はキツネのようなデザインで体のフォルムは人間的だが顔にはカラフルな隈取のような模様が描かれていて歌舞伎とかのような舞台劇か、もしくは近代化されていない土着的な自然信仰を奉じているような少数民族間で施されるようなフェイスペインティングが成されている。そんなクラエがある音に誘われて物陰を覗くとそこにはラジオのような機械が音を出している。そのラジオの持ち主はこちらも半人半獣だがタヌキっぽい(コアラっぽくもある)雰囲気のブルーオと名乗る。二人は太陽の王国と月の王国のエージェントを自称し、二人(二匹?)のエージェントはそのラジオから漏れる音が自分の任務を達成するための暗号だと思って二人でその暗号が示す地へと向かう…というお話です。
どうもピンとこないというか、いやだからどんな話だよ!? と思う方も多いのではなかろうか。感想文書きながらこう言うのもなんだが、実際これは文章であらすじを解説されてもよく分からないだろうなと思う。ま、しかしそこで大事になってくるのが最初に書いた形と色彩と音と光、そういったプリミティブな要素なんですよ。
お話自体はざっくり言えば少年二人のちょっとした冒険で『スタンド・バイ・ミー』的な現実からの逃避としての側面もあるのだが、その根底にあるのは子供同士のごっこ遊び的な演劇性ではなかろうかと思った。二人の主人公のキャラクターデザインが半人半獣のようになっていて隈取のようなメイクが施されていると書いたじゃないですか。それはきっと端的に変身であり他人になるということなんですよ。例えば演劇を示すアイコンは度々マスクで表現されるじゃないですか。怒り顔のマスクと泣いてるマスクが隣り合ってたりするような感じで。そのアイコンがマスクであるというのは当然意味があって、演劇というのは読んで字の如く役者が自分ではない存在になって物語を演じる劇なわけですね。つまりマスクをかぶったりメイクをするというのは自分ではない何かに成り代わるということを示
しているわけだ。
そうすることによって人は王様になったり勇者になったり銀行強盗になったり宇宙飛行士になったり漁師になったり、果ては役者は男なのに女の役で舞台に上がったり老人なのに子供の役をやったりと様々な垣根を越えて自分以外の何かになるのである。もちろん太陽の国のエージェントや月の国のエージェントにもなれる。それはごっこ遊びの延長でありとてもプリミティブな楽しさなのだ。
本作はその楽しさに溢れている。中でも光が重要だと思うのだが、その光は様々な加減で本作でのよく動くキャラクターを映して白と黒で二分されるのではない豊かな色彩のグラデーションも浮かび上がらせる。その色と形の明滅が音になってスクリーンに溢れかえると「こんな風に何者にだってなれるんじゃないだろうか」と思えて思わず落涙してしまいそうになるのである。自分という壁を越えて他人と触れ合い遊ぶのは、こんなに楽しそうに見えるものなのかと。
ただ本作はもちろんただ楽しいだけの映画ではなく、主役の二人が何者かになってある境界を越えようとしてるのだとしたら、それはそのまま何者にもなれなくてその場所に縛り付けられてる現実の反転でもあるのである。あまり書きすぎるとネタバレになるので抑えめに書いておくが、本作で非常に重要なモチーフとして使われているものとして壁と戦争がある。壁は外部からの脅威を防いではくれるが通行を妨げて他の場所に行けなくなってしまうものである。戦争はそれに参加している者を敵か味方かに分け、本来は無数にあるはずのグラデーションのある立場を塗り潰してしまうものである。その壁と戦争を描きながら、壁を乗り越えて様々な色彩の中で遊ぶ二人を描いた本作は、自分自身を壁の中に閉じ込めて他者を敵か味方かの二色だけで判断するようにはなるなと言っているように思えた。
実にタイムリーな映画である。もちろん映画というのは基本的に2~3カ月で作れるようなものではないので今まさに戦闘が行われているイスラエル・パレスチナの問題を受けて作られたということはなく、どちらかといえば本作の制作時期的に念頭に置かれていたのはウクライナ戦争の方だろうが、しかし今この時勢で観ると深々と刺さってしまうテーマである。もちろんタイムリーなネタだから凄いなどということではなく、本作には普遍的な価値のあるものが描かれているのが凄いわけなのだが、今観ることによってより多くの気付きを得られるということはあるのではなかろうかとは思う。だからなんというかさ、まぁ気になってる人は是非劇場まで行ってほしいですよ。
遊びの中にある演劇性、その境界を越えるための力というのが楽しく美しく描かれていて最高でした。そう、重いテーマを持ちながらも楽しいんだよな、この映画。それが一番えらいよ。エンドロールで流れる曲も祝祭的で非常に陽気で楽しいんですよ。まるで映画のクライマックスで生まれた「何か」を祝福しているようだと思った。何が生まれたのかは、実際に劇場へ行って自分の目で観てください。とても素晴らしいアニメ映画でした。
この映画がスクリーンに映し出す光は、我々が生きている世界の美しさと豊かさと、それらが単純なあちら側とこちら側だけの世界ではなくて幾重にも重層的に織りなされているのだということを思い起こさせてくれると思う。
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