天豆てんまめ

トゥルーマン・ショーの天豆てんまめのレビュー・感想・評価

トゥルーマン・ショー(1998年製作の映画)
4.5
おはようございます!

会えないときのためにこんにちは!

こんばんは!

おやすみなさい😴

この言葉は今日紹介する映画の

主人公の挨拶のセリフだ。

私にとってジム・キャリーのNo.1作品はこの作品で、彼の表情だけで泣かされたのもこの作品だ。

この映画の脚本はとっても優れていると思う。さすが傑作SF「ガタカ」の脚本も書いているアンドリュー・ニコル。

そして監督の名匠ピーター・ウィアーの映像的センスも抜群だった。

今になっては量産されているリアリティショーを捻った設定だけどそれでは終わらない深さがこの作品にはある。

公開時に観た時の驚きと新鮮さは今も胸に残る。

そしてSNSに覆われた現代において、この作品の持つ意味はさらに重い。

この作品は映画史に残る傑作であり大好きな作品だが公開から20年以上経ち、この映画のメッセージが更に強く、悲しく叫びとなって響いていく。

あのジム・キャリーの笑顔を今はもう笑えない。

「トゥルーマン・ショー」映画レビュー

命懸けで真の人生に挑む映画〜本当に私たちは自分の人生の主人公として生きているのか。

彼は全てお膳立てされた世界を生きていた。

全世界に24時間365日生中継されている世界で、気づかず生活しているトゥルーマン。住人は全てエキストラ。天候さえもコントロールされている。

全てが作られた虚構の世界。彼は何も知らず、彼の24時間はリアリティーショー放送されている。

彼を観ていると段々と可笑しみから哀しみへ気持ちがいつのまにかスライドしていくのに気づく。

妻も親友も全て演者という真実を彼は知らない。

妻設定のローラ・リニーの視聴者目線のCM演技に爆笑し、親友を信じているトゥルーマンの心の叫びに揺り動かされ、そしてそこにBGMで演出される二重世界に慄く。

その世界を演出しているエド・ハリスの酔いしれた表情…

そして初恋相手のローレンの真実の囁きがキューンとたまらない。

「私を探しに来て、、」

そしてたった一度のキスを残して消え去った彼女。

電波を間違えたカーラジオやエキストラの右往左往に違和感を感じる笑いから始まり段々と笑えなくなる展開。あらゆるシーンが伏線となってクライマックスに活きてくる。

この作品のテーマは実は深い。

ひょっとしたらもっとシリアスなヒューマンより深いかもしれない。

人生はいったい誰のものなのか? 

と問いかけてくるからだ。

人生がもし自分のものでなかったとしたら? 

或いは誰かに与えられたものだったとしたら? 

そんなこと私たちは日々考えもしないかもしれないけどトゥルーマンは大真面目に誰かの作った世界を生きている。

私はこのジム・キャリー=トゥルーマンはトム・ハンクス=フォレスト・ガンプに匹敵するキャラクターの強さがあると思う。

一番の魅力は彼のピュアネス。

そして見ていくと彼を好きになりそして哀しくなる。自分で努力して獲得したことが実は誰かに御膳立てしてもらったと気づいた時は誰だって心底悲しくなる。その底にある哀しみに触れているのがこの作品だ。

今までの何気ない風景が作り物であることがわかって世界が崩れ落ちていく怖さ。

居心地のいい我が家、美しい妻、何でも話せる親友、安定した仕事、それが全て作り物だった時の絶望。

私は彼の特異な世界は、私たちの世界と深層意識では深く結びついてると感じた。

私は私が作った物語=MYLIFEを迷いなく生きていると言い切れるのだろうか。

本当の自分を隠してある役割を生きているということは無いだろうか。

誰かに期待されていることを無意識になぞってるのではないだろうか。

これが幸せと思い込んでいる日常はCMや垂れ流された情報に思い込まされているだけではななかろうか。

あらかじめ敷かれたレールを外すのが怖くて見ないようにしていることはないか。

親や世間の期待に沿って日々必死に演じてはいないか。

考えることをやめていないか。

自分の人生を本当に主人公として生きているのだろうか...…

※これから作品の核心に触れ、更に考察します。

他人が演出した人生を気づかず生きるトゥルーマンの太陽のような笑顔。そして創られた輝きに満ちた日差し。

それが眩しければ、眩しいほど観ていると心が締め付けられる。

ラストシーン。この作品のジム・キャリーの最後の表情にとても心が揺さぶられた。

今でもあの場面でのあの表情は映画史に残る素晴らしいモーメントだと思っている。

そして自分を支配しようとしている者からの鎖を勇気をもって断ち切って船出をした先に見える光景、自分の人生に飛び出す勇気。

それは架空を生きたトゥルーマンだけの世界ではなく私たちみんなの世界なんだと私は感じている。

この映画はSNSの監視社会に呪縛されて苦しんでいる方に特に見て欲しい。

2020年に起こった恋愛リアリティショーの悲劇もSNSが逃げ場なく取り囲み、何度も動画や情報を繰り返し拡散され、そこでの発言を更に世界中が眺めるという構造と何も変わらない。

遥かにスピードも規模も拡大している。本当にその中だけで生きるかぎり逃げ場がない。

自分たちの命と尊厳を守るために、私たちはトゥルーマンのように逃げきれるだろうか。

全てのSNSを遮断して人里離れた自然豊かな集落に身を寄せて、数年世間から身を離して忘れ去られたって命を守るためならそれに代わるものはない。

でも今生きているこの自身にまとわりついて一体化してしまったこの情報空間の世界から抜け出すのはすべてを捨てる勇気がいる。

だからトゥルーマンの逃走に涙が止まらない。

真の自由を取り戻すための命がけの逃走だから。

この映画はそんな自分の人生を生きることの困難と切実さを観るものに突き付ける傑作だと思う。

だからもし今、あなたの心の空気がすっと薄くなったなら、自分を見せ見られることに辛くなったら、苦しいって 助けてって、あなたを大切に想う人にメッセージを送り、今いる世界からすぐにでも逃げてほしい。

たったひとつの命を守るためにその虚飾の世界から逃げてほしい。あなたを愛する人だけがいる世界へ。

映画の話に戻ろう。

そして私たちの話へ。

トゥルーマンに感情移入するにつれ、彼の苦悩をエンタテイメントとして楽しみ、高みの見物している視聴者に軽蔑の気持ちがなぜか湧いた。

そしたらふと気がついた。

私も傍観者である視聴者の彼らと一緒だった。。

この映画を観ることは、トゥルーマンを番組で観る全世界の観客。そしてその二重世界の映画を観ている私たちという三重構造にならざるを得ない。

そしてこの作品で私たちに一番近いのは、トゥルーマンを番組で観ながら、他人の不幸や幸せに、笑って、泣いて、一喜一憂し、熱狂している姿だ。

他人の人生のドラマ=映画を観客として観ているうちに、自分の人生を生きるということ(生活するという意味ではない)が置き去りにされていく。

いつのまにか主人公の座を譲っている。

他人の虚構の人生に感動することはあるが、自分の人生に歓喜する瞬間はどれだけあるだろうか。

観客のような人生なんてつまらない。

私は映画も心底楽しむが人生の観客では絶対終わりたくない。

自分が観た最高の映画より、自分が生きたこの人生と物語が最高傑作だと思って死にたい。

自分の人生の主人公として、歓喜、熱狂、感動して命を終えたい。

映画はそのヒントになるが実人生の熱量は、自分自身にしか決して生み出すことはできない。

だから、もがく、苦しい、不安になる。それでも立ち上がって闘う。それが実人生。

私たち100%いつか死ぬ人生。

誰にとってもそんな最高で最低なドラマを今この瞬間も生きている。

この作品は実はそうした問いを幾重にも突き付けてくる傑作だと私は思う。

自分の人生を生きて、生きて、生きて、生き抜きたい。

そんな自分の人生を生きることの勇気と困難と切実さを改めて観るものに突き付ける傑作ヒューマンだ。

観終わった瞬間から実人生が鮮やかに始まる気がした。

トゥルーマン。真実の人。

傍観者ではなく人生の主人公に私もなりたい。

彼のように。