ヨーク

そして光ありきのヨークのレビュー・感想・評価

そして光ありき(1989年製作の映画)
4.4
早稲田でのイオセリアーニ特集延長戦五本目にしてこれがラスト。長編1本と短編数本を見逃したがこれで大体イオセリアーニは観たかな。残りの短編群とかもまたどこかで上映していただきたい。
それはともかく、映画の方はというと7~8割くらいは観たであろう今までのイオセリアーニ作品の中ではもしかしたら一番面白かったかもしれない。いや凄いっすよ。上映時間は110分くらいだったと思うけどずっとこんな映画あったんだ!? って思いながら観てたもん。そんな『そして光ありき』でした。
お話は超ベタ。超ベタっていうかそもそもお話らしいお話はほとんど展開されないんだけど、公式のあらすじを見るとセネガルの森に住むディオラ族が白人による森林伐採などの開発によって住むところを失う危機を迎える、とある。超ベタなお話のパターンであるばかりか超シリアスなお話である。
環境破壊なんかと一緒にして語られることも多い題材で、日本でも80年代から90年代にかけてその手のお話はよく作られたと思う。例えば1985年から始まった『ゲゲゲの鬼太郎』第3期では環境破壊によって住処を追われる妖怪たちというネタは頻出した。またほぼ同時期の84年には『風の谷のナウシカ』も公開された。もうちょい遡れば『ソイレント・グリーン』なんかも環境問題を取り扱った映画として観ることもできるだろう。だが本作にはそれらの作品たちにあるような深刻さというのは特にない。いや根底にはあるのかもしれないがぶっちゃけそこまで表立って出てきたりはしないし、イオセリアーニの他の作品の多くがそうであるように本作もかなりすっとぼけた軽いと言ってもいいようなノリで進んでいくのだ。まずはそこが面白かったですね。
その実際に描かれていることは深刻極まることなのに描かれるタッチとしては何だか軽い、という意味では『平成狸合戦ぽんぽこ』を思い起こしもした。特にドライと言ってもいいほどの無常感を感じた部分なんかは『ぽんぽこ』っぽいなと思ったのだが『ぽんぽこ』の方は何だかんだで終盤はドが付くほどシリアスで悲壮感たっぷりなのに比べて本作は無常感はあるものの悲壮感はあんまりない。原住民が追い詰められていく様とか、その逆に原住民を追い詰めていく白人たちの悪辣さとかは全然描かれない。じゃあ代わりに何が描かれるのかというと、ただ日常と生活だと思う。その普遍性がちょっと気が抜けるほどの緩さと共に描かれる映画なのだ。
ちなみに本作は公式のあらすじ紹介にもあるようにセネガルのある部族の姿を撮ったものらしくて、最初のシーンこそ結構ドキュメンタリーチックなタッチで描かれるのだが、数分も経たないうちに首が切断された人間が怪しげな魔術で生き返るというトンデモなシーンが描かれる。正直、は? って声が出かけた。いやなんなんだこれ。どういうリアリティラインで観ればいいんだ、というは? である。ちなみにその後にも魔術的な力を使う場面はいくつかあるがそれが何なのかの説明は全くない。
この辺と白人による原住民への罪深い環境破壊というモチーフは、オリエンタリズム的な白人から見た白人世界以外のエキゾチックさも含めたナチュラルな非白人世界への蔑視とかが含まれていると言えなくもなさそうなんだが、しかし本作では舞台となる村を外の世界として描くよりもむしろイオセリアーニは多分このセネガルの消えゆく部族を自身の祖国であるジョージアに重ね合わせているのだと思う。本作での白人による森林破壊とそれに対する原住民の態度というのは、アフリカの人たちは賢く強い白人文明のインテリたちによって守られるべき弱い人たち、というよりもイオセリアーニの他作品で繰り返し描かれているソ連(およびロシア)からの無言の圧力を感じながらも特に誰の手を煩わせるでもなく自力でどっこい強かに生きているジョージア人、という風情を感じたからだ。
そしてその上で荒唐無稽な魔術的なシーンを織り交ぜることで本作の舞台は現実ではないどこかファンタジックとも思える世界になっているのである。実際作中ではこの映画の舞台がどこなのかということは一切語られなかった。そこが最高に良かったんですよね。上で類似作品として挙げた『ぽんぽこ』と決定的に違う部分もそこで、本作で描かれた原住民たちは『ぽんぽこ』の狸たちのように開発に反対して戦ったりはしないんですよ。この映画はネタバレなんか意味ないと思うから書いちゃうけど、最終的に原住民たちは村を追われることになって彼らはそれなりに白人たちに恨みを持ちつつ「この地に呪いを!」とか言って村を燃やして(それもまた魔術的な力で燃やしてた)去っていくんだけど、もう次のシーンではすっかり街に移住してそこに馴染んだ姿が描かれるんですよね。ちょっとズッコケるよ。ほんの数分前まで女性も上半身裸でその辺うろついてたのにすげぇ綺麗なドレス着て「あら、いいわねそれ、どこで買ったの?」みたいなやり取りしてんだよ。『ぽんぽこ』の狸たちも最終的には人間社会に溶け込んでいく者たちもいたっていう締め方だったけどさ、本作の方はもうそこに何の葛藤とかもなさそうなんだよね。それでええんか? とも思ってしまうが、辺境でも都市部でも変わらずに強烈に照らされた日差しの中で生きている人物たちを見ていると、タイトルを反芻しながら、まぁいいのかもしれないなと脱力しながらも思ってしまうのだ。
『群盗、第七章』でも『唯一、ゲオルギア』でもジョージアの歴史と共に人間の愚かしさは描かれていたが、それと同時にいつの時代でも酒を飲んで歌って踊る人間の姿も描かれていた。つまりそういうことなのだろうと思いますね。人間のそういうところが好きなんじゃないかな、イオセリアーニは。
ちなみに本作はセリフが全部現地のセネガル語? かなんかで会話されるのだが字幕はほとんど無いため何を言っているのかはよく分からない。ほぼサイレント映画のようなもんである。これはイオセリアーニが意図したもので、普遍性を描いたので字幕は無くとも言葉の意味は何となく分かるだろう、ということらしい。ちなみに数は少ないが何度か字幕が出る場面はあって、そこは余程重要な場面なのかと思いきやいざ字幕が表示されると”バナナ食べる?”とかそんなセリフなのである。ここは声出して笑いそうになったじゃなくて、声出して笑った。なんだよそれ、そのセリフそんな重要か? と思うけど、そうなんだよ、重要なんだよ。
全てが眩しく見えるような強い光の中で”バナナ食う?”とか言いながら何となく生きてる感じ、多分ジョージア人なら”ワイン飲む?”とかと同じことなんだろうな。そういう映画だと俺は思いましたね。非常に面白かった。
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