Foufou

ほとりの朔子のFoufouのレビュー・感想・評価

ほとりの朔子(2013年製作の映画)
4.0
冒頭から、あ、ロメールだ、となる映画です。偏愛するロメール、と監督自身語るだけあって、ロメールに淫したとさえ言い得る作品。しかしそこは深田晃司、否応なく独自の才能の刻印された作品に仕上がっている。こうした才能ある映画の作り手と同時代に生きてあることを、素直に寿ぎたいと思う。

濱口竜介、今泉力哉、そして深田晃司と観続けてきたのはほかでもない、サブスクの一つ「ザ・シネマ」でロメールの喜劇と格言シリーズのリリースが決まった際にHPにアップされたエッセイの中で、ロメールの影響下にある日本人監督の名前が挙がっていて、それが先の御三名だったからである。だから今が日本映画の第三黄金期と呼ばれていることも、これらの監督たちが国際的な賞レースで名声を勝ち得ていることも恥ずかしながら知りませんでした。ですから、わたしを現代の日本映画に結びつけたのは、ほかならぬロメールとの縁(えにし)なのです。極私的な体験で恐縮ですが、こういう成り行きに深く感動する次第。

2013年の作品。2011年以降に撮られる日本映画が、震災と程度の差こそあれ無縁でいられないことを雄弁に物語っています。それは映画に限らないでしょう。今日まで、あらゆる芸術表現が、大きな傷からの回復に向けて答えを見出そうと足掻いてきたのであり、その傷の十分癒えぬうちに今般のコロナ禍となり、ともすると思考停止の心地よさに身を委ねたくもなるであろうに、少なくとも日本映画はその足掻きをやめず、少なからずの作品が、観る者に生きることを是とするメッセージを発信し得ているこの現実を、奇跡と呼ばずしてなんと言おうである。

そのいっぽうで、二階堂ふみを観ることは、努力の無効性について深刻に考えざるを得ない事態であるとも思う。『ヒミズ』の彼女も本作の彼女も同じ「二階堂ふみ」である。演技の幅に舌を巻くというより、映画の世界へのその溶け込みぶりに溜息を吐くのである。『ヒミズ』の景子も『ほとりの朔子』の朔子も、なんなら『私の男』の花でもいいのだが、それぞれの作品において別個のキャラクターを演じ分けるというより、二階堂ふみという個性の枠の中で、矛盾なく共存する何かを演じていると感じられるのだ。ピッタリの言葉はないかと考えて、思いついたのが、「時代の寵児」。人に何かを尋ねるときに如実に現れるあの口調は、おそらく生まれ持ったものだろう。時代の空気が、この女優の身体を借りて現出するように錯覚される。女優とは、鍛錬して成るものではなく、女優として生まれつくものではないか、とふと思うのである。

だから監督の意図するところが日本版『海辺のポーリーヌ』であったとしても、ポーリーヌを演じたアマンダ・ラングレのはち切れんばかりの肉感をそもそも奪われている二階堂ふみの細い身体は、フランスの田園とは似ても似つかない日本の醜悪な海辺の曇天色の地方都市に親和して、わたしたち(の日本)が深く傷ついていることをこれ以上なく気づかせてくれるのでもある。

朔子の朔とは、月齢零年の新月の謂。太陽に照らされない0歳の月が、波打ち際の、磯辺の、そして川のほとりに、立つことの意味。とりわけ、深緑を反映する川のほとりに赤のワンピースの二階堂ふみを立たせたあの絵は、息を呑む美しさである。ママチャリすら美しく映える。ロメールを慕えばこそのこれ以上ない美しい緑が、本作に採用されたサイレント映画と同じスタンダードサイズのアスペクト比のスクリーンに氾濫して、思わず、嗚咽とも知れないような声を上げてしまう。そしてこれは、正しく再生の物語であることを理解する。あの健康美の権化のようなポーリーヌが、再生を期してほとりに佇むことなど、ちょっと考えられないではないか。

インドネシアの地域研究者という設定の鶴田真由を軸にして観ると、本作は『海を駆ける』の前日譚のようでもある。だから、奇しくも両作を深田晃司の入門として観たことは、天佑神助のなにものでもない。

なんとまた、わたしは空前のシネマ体験の渦中にあることだろう。
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