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ダンケルクのkuuのレビュー・感想・評価

ダンケルク(2017年製作の映画)
4.2
『ダンケルク』
原題Dunkirk.  映倫区分G.
製作年2017年。上映時間106分。

クリストファー・ノーラン監督が、初めて実話をもとに描く戦争映画。

史上最大の救出作戦と言われる『ダイナモ作戦』が展開された、第2次世界大戦のダンケルクの戦いを描く。
出演は、今作品が映画デビュー作となる新人のフィオン・ホワイトヘッドのほか、ノーラン作品常連のトム・ハーディやキリアン・マーフィ、マーク・ライランス、ケネス・ブラナー。

ポーランドを侵攻し、そっから北フランスまで勢力を広げたドイツ軍は、戦車や航空機といった新兵器を用いた電撃的な戦いで英仏連合軍をフランス北部のダンケルクへと追い詰めていく。この事態に危機感を抱いたイギリス首相のチャーチルは、ダンケルクに取り残された兵士40万人の救出を命じ、1940年5月26日、軍艦はもとより、民間の船舶も総動員したダイナモ作戦が発動。
戦局は奇跡的な展開を迎えることとなる。
余談ながら、英国側コードネームダイナモ作戦(Operation Dynamo)が始まったとき、ウィンストン・チャーチルは英国の首相になってまだ16日目。
1940年5月26日、ハリファックス卿(伯爵)が、まだ中立的な立場にあるイタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニを利用して、交渉による戦争終結の仲介をすることを提案した後、チャーチルは
『多少の領土を犠牲にしても、我々が本質的なものや重要な力の要素を保持するならば、そのような条件で現在の困難から抜け出すことはありがたいことだ』と答えた。
彼は、『マルタ、ジブラルタル、アフリカの植民地を放棄することでこの窮地を脱することができるなら、彼はそれに飛びつくだろう』といったが、しかし、『唯一の安全な方法は、ヒトラーに我々を打ち負かすことはできないと思わせることだ』と述べている。

ノーランの映画の構成てのは、前方の踏面をモザイク状に変えて、統一されたドラマチックなアークの感覚を、一連の観察的な逸話、孤立した行動やら孤独な対決に変えてしまう。
彼は個々の勇気やヒロイズムを強調してるけど、それって選択や偶然のごくわずかな細部に依存してるし、全体的な歴史的出来事はそれに依存してる。ノーラン監督は、3つの道筋と行動領域を分けることで、
不確実性、
不確定性、
形而上学的なランダム性、
ほんで、結果を構成する様々な出来事の奇跡的な相乗効果を仄めかしてる。
ノーラン監督は、戦争の基本的な道徳的恐怖に焦点を当てるために、戦争の切断や苦悩を抑えているように感じる。
云い換えれば戦争の基本的な道徳的恐怖に焦点を当てるために、身体の損傷や苦悩を抑えてる。
今作品はパラドックスの映画で、その主題はキャラであり、己や他人の生死を左右するような決断に直面しながらも、
己の感情を抑え、
思慮深く、
責任感を持って、
名誉を重んじ、
自己犠牲的に行動する男たちの気概。キャラのほとんど、ほんで主要キャラのすべてが野郎やし。
せや、ノーラン監督は彼らの人物像をまったく掘り下げず、そのような勇気を育む個人的な特性についてもまったく考慮していない。
今作品は、メタファー(暗喩)にもシミリー(直喩)にも戦争の物語の集合体やと云える。
戦争の文脈の中に厳密にとどまって、語るべき詳細の前兆的な影とともに戦争の勇気と厳しさ、実存的な瞬間を強調してた。
逸話の集合体でありながらも、戦いの領域の外にいる兵士たちの姿は何も見せへん。
もちろん、この時代には、ほとんど想像できないようなことが沢山あったと思う。
先の世界大戦には、何か独特の世界史的なものがあり、それは連合国の価値観とナチズムの価値観ちゅう、両者のイデオロギーの違いに特徴があることと関係しているんやろし、現代の多くの人々は同意することやと思う。
せや、ドイツ人はもちろんのこと、ナチスもノーラン監督の登場人物が戦っていることとは何の関係もないように見える。
『ナチス』って言葉は出てこないし、ヒトラーの話も出てこない。
『ドイツ人』ちゅう言葉も聞き逃しじゃなきゃ聞いてない気がする。
一度だけ、英国のスラング『Jerries』って云っている人がいたかな。
ノーランの主題は別のところにあり、隠れてて、それは、英国の存在そのもの、国民文化の存在そのものが危機に瀕している総力戦への集団的目的、国民の団結、総動員への賛辞であると思う。
ノーランは、この愛国的な団結への賛歌を、多元的なものを見聞きすることによってではなく、多元的なものを排除して、まだその一部ではないものをすべてフィルタリングすることによって今作品で達成している。
多分、意図的でない方法で、結果として戦争の美徳を鼓舞する力への賛辞ともなってんのかな。
いつものノーラン監督の意志ある芸術性の証である厳格なイメージは、今作品じゃ匿名的な実用性を帯びてた。
彼はイメージを強調すんじゃなく、視覚的な仕事の大部分を任せている。
ハンス・ジマーの音楽は、小生には感情的な命令を発しているかのようにメチャクチャ威圧的やけど、ノーランは音楽であれ効果音であれ低音を多用しており、画面が鳴りいつもより震えた。
今作品の感覚過多は、反知性的な弾幕でもあり、戦争を遂行する上で困難を乗り越えた実際の相違点、つまり個人的なものだけでなく、官僚制度への懐疑心、軍の規律やヒエラルキーへの憤り、社会的・政治的な対立など、戦争の最中には抑えられていたかもしれないけど、戦後にジャーナリストや歴史家、芸術家たちによって詳述されたあらゆる種類の世間の不和を消し去っちまう。
余談ながら、海岸を爆撃していた飛行機はユンカースJu-87 Sturzkampfflugzeug "Stuka "の急降下爆撃機で、その特徴的な音はエンジンでもプロペラでもなく、フェアなメインギアの脚の前縁に取り付けられたサイレン、いわゆるJericho Trompete(『ジェリコのトランペット』)によるもので、地上部隊を恐怖に陥れ、第二次世界大戦中にドイツの航空戦力を誇示するプロパガンダツールとなった。
このサイレンは地上部隊を恐怖に陥れ、第二次世界大戦中はドイツの航空戦力を誇示するプロパガンダツールとなった音も臨場感あった。
今作品は、むしろ戦時中の自粛勧告のひとつのようにも思えるし、ノーラン監督の記憶や歴史に対する感覚は、彼の心理や性格に対する感覚と同様に、平板で問題のないものである。
また、今作品の空の部分は、ノーラン監督の演出が際立っているからというよりも、戦闘中の単独飛行がたまらなく官能的で見ていて魅力的やった。
しかし、たとえ映像的に大胆な映画であっても、自宅のテレビやパソコンで鑑賞し、一時停止して味わったり、フリーズしたり、バックしてシーンを見返したり、一部を逆に見たりするのも楽しいもの良かったけど、劇場で見れなかったのは残念でならへん。
鑑賞方法の違いによって生じる感情には違いがあるけど、その違いは映画ごとに異なり、あるフォーマットで良いと感じた映画は、別のフォーマットでも必ずそう感じられるはずやし。

余談ですが、ダンケルクビーチでのシーンの場所を
Googleマップ(ストリートビュー)で場所を調べてみると(15 Digue de Mer 59240 Dunkerque France.)、
トミーがビーチに行くために走る最初の路地がみれたり、拡大してみると、背景のディテールの多くが、今作品と同じであることがわかるります。
道路標識だけが取り除かれているけど、街頭(照明)とかはみれますよ。
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