ヨーク

キラーズ・オブ・ザ・フラワームーンのヨークのレビュー・感想・評価

4.5
御年80歳になる大御所も大御所のスコセッシ監督による新作で、しかもその高齢にも関わらず巨匠の晩年によくあるような抽象性が高い分かるような分からんような作品でもなく、アメリカの原罪的な問題を真っ向から取り上げているのだから、面白いか面白くないかはひとまず置いておいてもそれだけで凄いと思いますよ。まぁ結論から言うと面白かったんだけどね。
しかし、本作に関して言うならばスコセッシの年齢だとかそのテーマだとかよりもまず真っ先に話題に上がるのはそのランタイムであろう。なんと驚愕の206分。約3時間半である。アベンジャーズの『エンドゲーム』でもちょうど3時間くらいじゃなかっただろうか。あくまでも興行を意識する商業用の映画では中々他にない長尺だろう。俺としては先日『キリエのうた』の感想文でも同じようなことを書いたが長尺の映画に対しては大体、長ぇよ、という文句から感想が始まることが多いと思う。しかし、しかしだね、この『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』に関してはこれだけの尺を割くだけのものがあるなと思ってしまったのだ。ま、ぶっちゃけお話としてのあらすじをなぞるだけならいくらでもカットできるところはあるだろうが、本作の骨子となっているであろう部分、おそらくスコセッシが一番描きたかったであろう部分を描き出すためにはこの超長尺での描写の積み重ねは必要ではあったのかなと思う。
そのあらすじというのはディカプリオ演じる30代前半から半ばくらいかなっていう第一次世界大戦の帰還兵が叔父であるデ・ニーロを頼ってオクラホマへとやって来たところから映画は始まる。デ・ニーロはキングという愛称を持ち、町のみんなから頼られ、保安官補佐だかなんだかの役職も持っているほどにそのオクラホマの町の顔役的な存在なのでまぁ就職先でも斡旋してもらおうと思って来たんでしょうな。そのディカプリオの目論見通りにキングことデ・ニーロは「面倒見てやるから俺に任せとけ」と迎え入れてくれる。しかも仕事ばかりか結婚の面倒まで見てくれるというのだ。だがそこには当然裏の目的もある。デ・ニーロが牛耳る町はインディアンのオセージ族が白人たちに追われるようにして辿り着いた場所なのだが、何とそこには石油が眠っていた。その石油によって彼らは莫大な富を得るがアメリカ大陸を開拓した白人たちがその莫大な利権をみすみす原住民に明け渡すはずはなく、当然のようにデ・ニーロはそれを狙っているしディカプリオも石油利権を手に入れるための手駒として使うつもりであった…というお話です。
ま、関係性が入り組んでややこしいお話ではあるのだが町の代表者面してるけど実は悪漢のデ・ニーロをやっつけるだけの映画なら普通に2時間もあれば描き切れそうではある。だが実際には3時間半もの尺があるわけで、では本作はその長大な尺で何を描いているのかというと支配者が被支配者をその手の中に掌握するまでのメカニズムですね。権力のシステムと言い換えてもいいかもしれない。ちょうど直近の『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』の感想文でも支配と被支配の関係が描かれている映画だと書いたが、本作も正にそうであったと思う。本作における支配者は言うまでもなくデ・ニーロで、被支配者の代表は先住民のオセージ族の面々なのだが本作が面白いのはオセージ族だけでなく町の住人たちや主人公であるディカプリオもデ・ニーロの庇護下で支配される立場に立っていて、しかもそのポジションに満足や安寧を感じているということなのだ。それはオセージ族の面々も変わらない。だから本作のデ・ニーロというのは明らかにある種の悪として描かれてはいるのだが勧善懲悪的にコイツさえやっつければ全てが解決というような単純な悪として描かれてはいないのである。それは権力構造で共同体を支配してコントロールするときにはほぼ避けては通れないのではないだろうかという悪であり、本作でのデ・ニーロは観客視点では石油の利権を狙う町の代表者というような立ち位置で描かれているが、デ・ニーロ以外の町の面々からはそのような悪辣な人間とは見做されていなくてむしろ我々を守り導いてくれる存在のように見えている。自身をそのように見せるように仕上げた権力構造というのは田舎町レベルではなくもっと拡大すれば国家になり、もっと縮小すれば家庭にもなるものだと思うのだ。
それは家庭でいうならば現代のリベラル的な文脈ではほぼ負の面しか語られない家父長制とでもいうような男性的支配構造となり、国家でいうならば王権神授説による君主制に近いものであろう。無論本作の舞台となる時代のアメリカは君主制の国家ではないのだが政治というものは基本的にその時代の政体に関係なく、国(県や市や町でもいいが)は民衆のために利益を再配分するための機構で、国民や市民といった存在が「我々のためにこの共同体は運営されている」と思えるものでないと存続することはできないのである。それは政治家、または家父長制的構造でいうならば家長といった立場の者が、その下位に当たるもの対して「この人は自分のために汚れ仕事も含めたすべてのことをしてくれている」と思わせなければいけないということでもある。本作のデ・ニーロはディカプリオを含めた親族にも町民に対してもオセージ族に対してもそう思わせることに成功していたのである。少なくとも映画の中盤あたりまでは。
その手腕の描き方ですよ。俺が上で書いた、この映画はこれほどの長尺になる意味がある、と書いたのは。本作では「全てお前たちのためなのだ」と口に出していたかどうかは忘れたが、そのようにデ・ニーロは他の者たちに思わせるのである。全てはお前たちのためだから私の言うことを聞きなさい、悪いようにはしないから、ということである。そしてデ・ニーロ以外の登場人物たちもそう思ってしまうという力関係の構造が本作の舞台となる町では作り上げられているということが3時間半というクソ長い上映時間をフルに使って描かれるのである。
デ・ニーロが如何にしてそういう立場を手に入れたのか、までは流石に描かれないが、映画が始まった時点で既に町の権力者であり、また全ての登場人物をより良い方向に導く人間だと思われている人間であるということは丹念に描かれる。オセージ族からの信頼も得ていて、この人について行けば間違いない、と慕われている人物であるのが丹念に描かれるのだ。そして重要なのは他ならぬデ・ニーロ自身も自分が石油の利権を独り占めしようとする悪人なのではなく、どこかで自分がそうなることがみんなの幸福にも繋がるのだと思い込んでいることだと思うんですよね。殺人も辞さずに石油利権を奪ってオセージ族から富を奪おうなどというのは一歩引いて観れば悪人そのものにしか見えないのだが、デ・ニーロ自身もそれは良いことなのだとさえ思っているのだと思う。それが何なのかって言うと白人と比べてナチュラルに原住民を下の存在だと思っているという意識であろう。我々と比べて劣っている民族だから自分が導いてやらねばならない、そしてそのためには多少の犠牲(めちゃくちゃ殺しているが)もやむを得ない、と思っているのだ。それはオセージ族に対してだけでなく間違いなくディカプリオに対しても、コイツはバカだから俺が道を整えてやらなきゃいけないな、と良いことをしているつもりで彼の人生に介入して自分の望む方向にディカプリオを操るのである。
それは権力による支配構造に話を戻せば今の社会の中でもまま見られることであろうと思う。日本を含めた俗に言う先進国がまさにそうであるように間接民主制、もしくは代議士制なんていうのはあくまでも国民の「代わり」として議員が選出されるに過ぎないのに、その議員をまるで国民よりも偉い先生として持ち上げて衆生を導く存在のように崇めてしまう。そうなると議員の先生方も、俺ってその辺の奴らとは違う存在で劣った民衆に正しい道を示さなくてはいけないのだ、とか勘違いさせてしまうことにもなるのである。多分だけど日本でもほとんどの国民は国会議員に限らず県議会や市議会の議員に対しても「偉い人」だと思ってるでしょ。そしてこれも多分だけど(そうじゃないと思いたいが)議員側も自分たちは「偉い人」だと思ってると思うのだ。その構造が本作で描かれたような物語を生むのであり、そして本作は3時間半というクソ長い上映時間を使ってそのことを丁寧に描きあげるのだ。それだけのことを語るのだとしたらこのクソ長いランタイムも仕方ないわ、と思うわけである。
いやマジですげぇ映画だと思うよ。さらに本作が面白いのはそういうややこしい部分だけじゃなくて、むしろ本筋としてはそういう権力者としてのデ・ニーロの甘い罠を伴った支配体制からディカプリオがバカなりに抜け出そうともがく姿が描かれて、それがまた面白いのである。ディカプリオ超バカなんですよ。元々バカっぽい役は似合う人ではあるが、本作ではただバカなだけでなくて、そのバカさ故にドツボにハマった状況から何とか抜け出そうともがく姿が素晴らしかった。デ・ニーロは権力やその構造の写し身であると散々書いたが、そこから抜け出そうとするディカプリオはバカなんだけど、その構造から逃げるための力は持っていたんですよね。ネタバレに配慮して詳しくは書かないが、それはシステムでは刈り取ることができない個の感情とでも言うべき私的な力です。そしてそれを行使するのがまた、バカだからできるんだよなっていう感じですごく良かったですね。
少し後半の展開を書くとやりたい放題のデ・ニーロの悪行に対して国家が法を行使するんだけど、その権力の強靭さに対しての差はあれどぶっちゃけデ・ニーロも国家も同じようなもんなんですよね。スケールの違いこそあるが質的には変わらない。ただ、その力が公から私へとミニマムになればなるほどに割り切れないものとしての感情がまとわりついてくる。ディカプリオはバカだからその個としての感情の力を捨てられなかったんですよ。そしてそれが支配のシステムに小さな一撃を与えた。バカだからそれができた。そういう映画だと思いましたね。
あと支配のシステムとして家父長制にも似てると上で書いたが、書きながら最近観た『旅するローマ教皇』のことも思い出した。詳しくは該当の感想文を見てもらいたいが、そこではおとーさん映画だと書いたんですよね。キリスト教のPapaでありながら情けなさも描かれたローマ教皇を描いていると思ったので。でもそれでいくと本作もおとーさん映画だよな。『旅するローマ教皇』のようにおとーさんの情けなさも受け入れるのではなく、その権威を捨てるくらいなら暴力も辞さないという闇のおとーさん映画ですが、それもまたおとーさんのあり方ではあろう。スコセッシ作品ということを踏まえればそのPapaというのはギャングやマフィア的なPapa像なのかもしれない。そう考えればこの上ないほどに完璧でスコセッシの映画人生の集大成と言ってもいい作品なのではないだろうか。そしてその全てを突き放してしまうようなあの最後のシーンから続く音楽と踊りで、もうアメリカという国のほぼ全てを描いてしまったのではないだろうかとさえ思ってしまう。
やっぱ凄いわスコセッシ。別に俺はそこまで思わんが「ヒーロー映画なんてクソだよ」ってアンタなら言ってもいいわ、って思っちゃったもん。
長かったけど、すげぇ面白かったです。
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