ヨーク

サン・セバスチャンへ、ようこそのヨークのレビュー・感想・評価

4.1
例の騒動で干されていたのでかなり久しぶりな感じがするウディ・アレンだったが、前作『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』が2019年の映画(日本公開は2020年)だったので4年ぶりだと思えばそこまで久し振りってわけでもなく結構普通のスパンだよなと思った『サン・セバスチャンへ、ようこそ』でした。まぁ、ウディ・アレンはよくイーストウッドと比べられるほどに多作で早撮りが有名な監督で、老いてからも年に1本とかのペースで新作を撮っていたのでそのペースから考えるとやはり久しぶりの新作とはなるのだが。
とまぁ、そういうご無沙汰してましたな感じで劇場へ向かったのだが、本作は個人的に予告編で始めた見たときにちょっとズッコケたという経緯があって、それが何なのかというと「余りにもいつものウディ・アレン映画すぎるやんけ…」ということだったのである。
あらすじは、かつて大学で映画を教えていたウォーレス・ショーン演じるモートは現在小説の執筆に取り組んでいるがその執筆は遅々として進まない。そんな折、映画業界で広告業を営んでいる妻のスーに同行してサン・セバスチャン映画祭に参加する。だがモートはスーが担当する若手の監督フィリップと彼女が浮気をしているのを疑っていたのだが、自身もサン・セバスチャンで偶然出会った女医に心を惹かれていき…、さてお互いに浮気をしてしまう夫婦の行方や如何に…というもの。
全作とはいわずともウディ・アレン作品をいくつか観たことがある人なら、そのお話前も観たよ…となるのは必至であろう。まぁ実際ウディ・アレンという人は大体いつも似たような映画ばっか撮ってる人で、作品ごとに切り口やネタは違うものの多くの作品で共通するのは男と女がくっつくか別れるかみたいな正直どうでもええわと思ってしまうような物語ばかりなのである。それは上記したあらすじでも分かるように本作でも健在なのだが、俺がズッコケたのはまた同じようなお話を…というよりは、例のスキャンダルで干された後の復帰作でもこれなのかよ!? ということだったのである。いやだって数年にわたって干されたりしたら色々と思うところがあって今までとは違う何かが作品に反映されたりしない? と思ったのだが、お出しされたのはいつものウディ・アレンでしかなかったわけである。
良くも悪くもではあるのだがこのことについてはびっくりした反面、そのいつも通りさにうれしくなったというところはあった。まぁ基本的に俺はウディ・アレン好きだからね、その好きな部分が今までと変わりなく発揮されている作品であろうと思われることはうれしかったわけですよ。ただ、これは本作を観た後にググって知ったのだが『サン・セバスチャンへ、ようこそ』は公開こそ2024年の映画なのだが制作年は2020年となっていたのでもしかしたら脚本も撮影も編集も実際に干された時期とどのくらいタイムラグがあるのかは分からない。少なくとも「#MeToo」運動を受けてウディ・アレンの性的虐待が掘り返された2018年の時点で『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』に出演した面々からは彼への批判的な声明が発表されたのでかなり底な時期に制作された作品ではあるとは思うのだが。
だから本作のいつも通り感が、本当にいつも通りだっただけなのか自身への告発を受けて干された後でもいつも通りだったのかはやや微妙な時期だとは思うのだが、結果としてはそれら全部を含めた上でウディ・アレンの集大成と言ってもいい映画であったと俺は思う。そこで問題となる集大成ということは何も男と女の愚かしくも普遍的なあれやこれやが描かれていたからというわけではない。これはウディ・アレン本人が自身を題材としたドキュメンタリー内で語っていたので間違いないことだと思うのだが、彼の映画は別に惚れた腫れたの恋愛だけを描いたものではなくて、多くの作品に於いてはこの世の全ての生命がどうしようもなく絶対に回避できない死というものを描いているのである。もっと言えば「いつか絶対に死んでしまうのに生きてて何か意味あるの?」というニヒリスティックな疑問である。本作でも生存の問題としてモートの口から語られていたし、妻の浮気相手の監督が如何にも深いテーマを扱っていながらその実は何の含蓄もない張りぼてのような映画を撮っていることに対する批判も、死を前にしてそんなことに何の意味があるのか、ということなのである。過去作でいえば『ギター弾きの恋』のラストシーンなんかは死に対抗できるものを失った男の姿で終わる。また、本作でも似たアイデアが流用されている『ミッドナイト・イン・パリ』では主人公が、いずれ現在もそうなるのだというある種の諦観と共に、魅惑的な死の世界からの帰還を果たす。その『ミッドナイト・イン・パリ』で使われたアイデアは本作でもほぼ同じ効果を持つネタとして使われるのだが、それは多分ウディ・アレンにとっては死に対峙するための武器なのだろう。
それが何なのかというと、映画である。本作ではウディ・アレン自身が多大なる影響を受けたであろう過去の名作が主人公の夢想として作中で引用される。覚えてる限りでタイトルを挙げてみるとウェルズの『市民ケーン』に始まり、フェリーニ『8 1/2』にトリュフォー『突然炎の如く』にルルーシュ『男と女』にゴダール『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』にベルイマン『野いちご』『第七の封印』にブニュエル『皆殺しの天使』などなど、多分他にもあったのではないだろうか。またセリフのみの引用なら『影武者』『忠臣蔵』『去年マリエンバードで』や監督名ではホークスやフォークスなどなど様々なタイトルや監督名が出てきた。映画以外でもシェイクスピアやドストエフスキーやジョイスやチェーホフなどなど。さて、しかしそれらがなぜ死に対峙するための武器なのかというと、恐らくだが、遺るからであろう。上記した作品群や作家たちはおそらく人類の文化史の中では消えることのないものたちであると思う。明らかにウディ・アレン自身の投影であろう主人公のモートはそれらに負けないような大傑作の小説を書き上げようとしているのだが、彼らのような名だたる天才たちに憧れながらも、いや憧れるあまりに一向に自作を完成させることができなくなっており、その姿はウディ・アレン自身への自己批判と自己嫌悪と皮肉へと還元されていく。しかしそれを経て、やっぱ生きていこう、となるラストは映像としては非常にさっぱりとしたものなのだが胸に迫るのである。
ウディ・アレンの生涯のテーマとしての死、その死と対峙するための手段としての芸術が取り上げられているわけだが、上でウディ・アレンの過去作の例で触れたように彼が描く死と向き合うための力は芸術だけではない。『ギター弾きの恋』で描かれたのはむしろ天才的なギター奏者であるエメットの演奏ではなく、彼が気付けなかったハッティの中にそれがあったのだと描かれるのである。そしてエメットはそれを失って終わる。そこにあるのもウディ・アレン自身の、自分が死と渡り合えるわけがない、という自嘲と自己嫌悪とがあるのだろう。
だが繰り返しになるが、本作のラストシーンは別に後味が悪いようなものではなく、まぁどうせそのうち死ぬけどそれまでは何とかのらりくらりとやっていくかぁ、というくらいの前向きさで終わりはするのである。だってベルイマンの『第七の封印』の引用シーンのあの緩さよ。まぁその内そっち行くからもうちょい待っといてよ、くらいの軽やかさなのである。それやられちゃうとウディ・アレンだなぁ、としか言えなくなっちゃうじゃん。もうそれだけで満足でしたね、俺は。ウディ・アレンの集大成と言ってもいい作品だと思います。
あと、これは書くかどうか少し迷ったのだが、コメディアンから映画の世界に行き、そして性的なスキャンダルが暴かれたという点では昨年末から話題の松本人志と被るなぁ…とか思っていたのだが本作を観たらやっぱウディ・アレンは凄いなぁと思いましたよ。上で書いたように本作がどのくらいのタイミングで製作されたのかはよく分からないが、まだこれから新作も予定されていると聞いてそれだけで凄いと思ったよ。松本はほんの4本コケただけで撮らなくなったからね。人間としてどうなのかはともかく、90歳目前でまだ映画撮ろうと思ってる人は凄いよ。イーストウッドもまた遺作撮るらしいけどさ、すげぇジジイたちだよな。そんなジジイの新作を観られるというだけでも価値はあると思うので興味があれば是非、ですね。
個人的にはかなり面白かったです。お話はしょうもないんだけどな!
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