ヨーク

カラーパープルのヨークのレビュー・感想・評価

カラーパープル(2023年製作の映画)
3.8
20年以上前にスピルバーグ版をレンタルビデオで見た記憶はあるのだがザッとしたあらすじ以外は特に記憶にも残っていない感じで、それくらいのもんだから無論原作小説の方も未読という状態でこのリメイク版『カラーパープル』に臨んだのですが、第一印象としては「まぁまぁ面白かった」というなんとも面白みのない感想であった。いやまぁ駄作とかでは全然ないんだけどね、でも傑作とか名作というほどでもないよなぁ…っていう、まぁこの世の大体の映画はそうなんだけどちゃんと見所もある作品で余裕で面白く観られるものではあった。その上本作は現代の感覚でいえばテンプレ的でよくあるものではあるがちゃんとメッセージ性の強い主張もあって見応えは十分にあるのだ。なので「まぁまぁ面白かった」というところに落ち着いてしまうのだが、でも多分だけど本作を観た多くの人はこの物語の核心的な部分は結構スルーしてんじゃないだろうかなという気はする。なのでこの感想文ではその部分を書いてみようかなと思います。
その前に簡単に内容を説明すると、お話としては『おしん』ですね。アメリカ南部の黒人女性版の『おしん』です。これはスピルバーグ版を見たときもそう思ったが今回も同じだった。要は主人公が自分の力ではコントロールできない事態に翻弄されてどんどん不幸と苦労をしょい込んでいくんだけど、周囲の人の助けや影響を受けて自分の進む道を歩き出す強い女性へと成長していくお話ですな。大体『おしん』でしょ。実は『おしん』は断片的にしか見たことなくて最後どうなるかとかはよく知らないまま断言してしまっているのだが、多分的外れな例えではないはず。要は主人公のセリーが理不尽な男女差別と人種差別に晒されながらも強く生き抜いていくというお話ですね。
実際に本作の感想などをザッと見渡してもその部分が語られていることが多く、黒人差別や家父長制に抗う主人公たちの姿に希望を見出したという人たちが多いように思う。まぁそこは本作の重要なテーマではあるし、かなり力強く描かれていた部分でもあるので当然といえば当然なのだが、俺が思うに本作の核心はそこではないと思うのだ。
じゃあ何なのよ、と言われるだろうが、この『カラーパープル』という物語で語られるもっとも重要な部分というのは神の発見ということだと思うんですよ。ただ、この「映画」でなくこの「物語」とわざわざ書いてしまうのはちょっと思うところがあって、映画としてそこが十全に描かれているかというと結構微妙かなという気はしたのである。
ま、ともかく物語は確か1909年のアメリカ南部から始まったと思うのだが、アメリカにおける奴隷貿易の始まりは17世紀初頭に現在のヴァージニア州ジェームズ・タウンにタバコのプランテーション経営のために連れてこられたのが最初だったと記憶しているので、本作の物語が開始された時点で黒人奴隷がアフリカからアメリカへと連れてこられてからすでに3世紀ほどが経っているということなんですね。もっとも、主人公であるセリーの先祖がいつアメリカ大陸へと連れてこられたのかは分からないが、少なくとも19世紀中までは奴隷貿易が行われていたので、数世代は経過しているのは間違いないだろう。
本作に於いてそれは非常に重要なことで、映画の冒頭で、正確な言い回しは忘れたが主人公から神への思いのようなものが語られるんですね。確か「神はこの世界の全てに宿っている」とかそんな感じ。んでその後にメインの登場人物たるまだ子供の主人公姉妹とかが出てくるんだけど、彼女らは敬虔なキリスト教徒なんですよ。冒頭の語りがいつの時間軸のものかは分からないが、少なくとも主人公たちはキリスト教徒であることは描かれる。それ超大事ですよね。数百年前に無理矢理アフリカ(具体的に主人公の先祖の出身がアフリカのどこかは語られなかったと思うが…)から連れてこられた人たちが映画の冒頭ではすっかりキリスト教徒になっているのである。
昔、個人的にクレオールという概念に興味があってその辺りの本を読んでいたときにアメリカにおけるアフリカ系奴隷のキリスト教への教化の過程というのも軽く触れたことはあるので多少の心得はあるのだが、当然アフリカから連れてこられた人たちはその故郷でそれぞれの土地に根差した宗教と信仰があって様々な神を奉じていたのである。だが数世代を経て彼らのほとんどはキリスト教徒になった。映画の感想からは外れるのでその過程は端折るが、本作のように理不尽な人種差別に遭ったアメリカの黒人たちが神(キリスト教的な)に祈るシーンなんかは他の映画でもいくらでもあるシーンであろう。あれは南部ではなくてネバダ州が舞台だったと思うが、みんな大好き『天使にラブソングを』のようなゴスペルといえば黒人たちの宗教歌のイメージが強い。
で、本作の主人公であるセリーもご多分に漏れずに健気にキリスト教の神を信じているのである。そしておそらくセリーはその神を「白人」の「男性」だと思って信仰していたと思うんですよね。神はともかく、キリストに関してはいわゆるナザレのイエス、あるいは史的イエスを見れば分かるようにアラブ系の非白人であったはずである。ではセリーに神は「白人」であり「男」であると思わせたものはなんなのかというと、アフリカから連れてきた黒人奴隷を教化してキリスト教的価値観と道徳を叩きこんだ方が御しやすいと踏んだ当時のアメリカ南部の支配者層と、数世代を経てそれが当たり前となった社会である。
本作は主人公のセリーが様々な数奇な運命を経て色々な人と出会い今まで知らなかった世界を知り、無意識なまま自分の中にあった「白人」であり「男」である神を葬って、この世の全てに宿る新たなる神を獲得するまでの物語なのである。ラストシーンでアメリカ南部の風景といえばコレって感じで象徴的に描かれるスパニッシュ・モスが垂れかかった植物(オークだったかな?)を取り囲むテーブルのシーンなんかはルーツとアメリカが習合、合一したシーンとして非常に感動的だと思う。だから実を言うと男女差別も人種差別もそのようにセリーの意識の変遷を描き出すための装置に過ぎないと思うんですよね。そしてそれは非常に重層的な赦しの物語となって集約されるのである。
本作の感想を眺めてると「ミスターがあっさり許されて納得いかない」というものをよく見かけて、まぁ感情的にはそれも分からなくもないところなんだけど、しかし本作の物語の構造上、神を乗り換えた上でその先にある赦しを描くというのはどう考えても必然なので本作のテーマ的にはミスターは許されなければお話を終えることはできないってなるわけだ。ただ、ミスター許せない勢の言いたいことも分かるというか、上記したように正直映画としては俺がここまで書いた神の再発見的なものを読み取るとしては描写が不十分じゃないかなぁというところはあったのである。決して低くはないが高くもない3.8というスコアもそこが理由だ。
読んだことないから知らないけど、多分原作小説の核心はアフリカからアメリカ南部へと移った者たちの神がどう変化していったのかとうことなんじゃないだろうかと思うが、映画はぶっちゃけ男女差別と人種差別に触れてるだけだと思う。140分と長めの尺があるのだからもう少し深い部分まで行ってほしいとは思ったが、ミュージカルは歌のシーンで尺を使っちゃうからそれはそれでまた構成が難しいのかもしれないな。そういえばスピルバーグ版も結構ドライな演出が多かった気がする。
ただ本作もテンプレ的なあるある感が多かったとはいえミュージカルとしての出来はとても良くて楽曲や歌唱は素晴らしかったですよ。なので映画としても全然面白かったとは思う。ただ、これもっと深いところまでリーチできるような物語だと思うんだけど中々そこまで掘り進まなかったなぁという感じもあるんですよね。俺は知識があるうえに映画を観る目もあるので、知識があるうえに映画を観る目もあるので(大事なことなので二回書いておく)本作が神を再発見する物語なのだと理解することができたが、映画自体の出来はそこまでは迫っていないと思いましたね。もちろん社会問題にも触れている娯楽作品としては余裕で良い出来な作品だと思いますけど。
あとはあれだな、最後に書き記しておかなければいけないことはあるシーンで炸裂する「お前の脳みそはポケットに入ってるのか?」という罵倒が好きすぎたということだな。本作はシリアスな人権問題を扱ってるのは言うまでもないけど、ここだけ荒木飛呂彦みたいなセリフ回しでちょっと笑ってしまったよ。いやトータルで見れば全然笑える映画ではないけれど…。
とりあえず質の高いミュージカル映画だったので普通にオススメはできます。面白かったですよ。
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