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流浪の月の821のネタバレレビュー・内容・結末

流浪の月(2022年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

完成披露試写会にて。李監督、広瀬すず、松坂桃李、横浜流星、多部未華子(敬称略) の主演キャスト登壇イベント付き。Filmarks 公募枠で鑑賞。ありがとうございます。

せっかく試写会で見させてもらったのでネタバレなしで投稿したかったのですが、核心に触れずに感想を書くのが難しかった〜。ということで、無念ですがネタバレありにしました。

とても儚く、繊細で、危うい物語。原作は未読でしたが、「誘拐事件加害者と被害者の、絆の物語」というプロットだけは耳にしていたので、これは語り口や描写の仕方によっては轟々の非難を浴びそうな作品だな…と思っていました。(そして製作陣もこの要素にはとても自覚的である印象を受けた。)

鑑賞してみると、やはり“危うさ”は残るものの、その危うさや人間の心情の揺らぎ、葛藤が見事に映し出されてた作品だったと思いました。特に心の底の見えない、暗い闇を抱えた文を演じた松坂桃李が素晴らしく(真っ暗な瞳の底知れなさが恐ろしく、また、秘めたものが暴かれるその瞬間がとても苦しみかった)、天真爛漫な性格を押し殺した更紗を演じた広瀬すずも圧巻だった。圧迫してくる他者に向かって言葉を紡ごうとする時、さまざまな感情を堪えながらも、それでも言葉の前に表情にその片鱗が現れてる様に鳥肌が立った。主演の2人の演技が素晴らしかったです。それにしても、李監督作品のすずちゃんはいつも酷い目に会っているので、もし次回作があれば精一杯幸せになってほしい。

あと、横浜流星がすごく頑張っていた。なんか瞳孔の開き方が、『あゝ、荒野』の山田裕貴を彷彿させました。出演作あんまり見たことが無かったのですが、物凄い熱演でしたね。良かったです。

ストーリーとしては上述したように「とても危うい」。でもその当事者たちにしか分からない物語を丁寧に描く。大人が務めを果たせなかったからこそ、「あるべき道」を踏み外してしまった文とそこについて行ってしまった更紗。
世間的に見たら「正しい」選択をしたが故に傷を負い、苦んでいる。その地獄からの救済が、2人にとって自分らしく生きていける場所が、結局「加害者」と「被害者」の枠に嵌まってしまった。
当事者2人にしか分からない世界を、画一的な価値観や行き過ぎた好奇心、過剰な正義感で断罪することが、時にはとても残酷で醜悪な事になることが描かれていた。
もちろん、この「犯罪加害者、その家族へのバッシング」は様々な邦画で見たことがあり(『ひとよ』とか記憶に新しい)、その描写の仕方も変わり映えのしない印象を受けましたが、他者による一方的な「正しさ」の押し付けが時にはその当事者を不幸にする、という一連の流れの見せ方、徐々にグラデーション的に明らかになってゆく様が、本作のうまみであり見所であったと思いました。
「いわゆる履歴書映えする人と付き合い結婚することが正義」という押し付け。「心配している」というふりをするけど、呼び出すのはカラオケの最中というチグハグ感。完全に娯楽の一つになっていた。

また、作中では2人を取り巻く世間が「社会通念、倫理、あるいは世俗的な価値観に当てはめる」ことを(過剰なまでに)強調していた一方で、当事者2人だけの世界はそういった枠に嵌めないような、一方的にジャッジしないような、とてもフラットというか、「無」の目線で映されていたのがとても印象的だった。もちろん、受け取り手によって彼らをどう判断するかは変わってくると思うのですが、それを伝える映像が、作品が、2人の世界になるとどの立場にも寄っておらず、ただ淡々と、2人の世界を写していて、それが新鮮で、作品の強みでもあり、また同時に少しの「危うさ」を引き出している要素だと思った。(*一部掻い摘んで読んだ小説よりも、映画の方でよりこの印象を強く感じた。)

文が幼い女の子たちにしか惹かれない理由については終盤まで明かされず、理由が性愛に寄るものなのか、はたまた違う理由なのか、純粋にプラトニックな愛情によるものなのかはすごく揺らいで写されていた。性愛によるもの、と予感させるような描写も意図的に挟んであり、もちろん文自身が揺らいでいる様子が重なるようにこちらに伝わってきて、危うさを覚え、とてもハラハラした。もちろん、誰も彼も、その人の性質など白黒付けられるものではなく、人間は多数の要素が複雑に折り重なって作られたもの。文というキャラクターからは、その複雑さや人間の多層性を強く感じた。

結局のところ彼は第二次性徴が訪れず、コンプレックスを抱えていた事が明かされるけど(この面、映画では若干分かりにくく、小説をチラッと読んでなるほど、と腑に落ちました)、彼が更紗に感じていたものは救済でもあり、二次性徴時の性の目覚め的な部分もあったかもしれない…と思うと、やはりそこには気持ち悪さや倫理的な誤りを覚えざるを得ず。体と心の成長が一致していない彼だからこそ起こった事ではありますよね。あの、文が更紗の唇に触れるシーンは製作者によってとても意図的に差し込まれており、とても印象的だった。わたしはここがまだ上手く消化できず、モヤモヤしている。人の性的嗜好は、その欲望を直接的に相手に向けて加害しない限りは自由であるべきだと思うし、文はたとえその嗜好を持っていたとしても直接的な加害をしていないわけだが(誘拐という犯罪は犯してしまっているが)、その一線を越えてしまいそうな揺らぎに「危うさ」を覚えた。その一線を越えると、伯母さんの中年の息子と同じになってしまう構造。こう考えてみると一線を越えることが「罪」である視線は作品にきちんと備わっていて、上手く作り込まれていたんだなと思った。

しかし、小説を少しだけ読むと、文と更紗の間のプラトニックな愛情(というか、支え合い)であることが強調されてる一方で、映画では性愛の可能性を消し去っておらず、そこにギャップがあるように感じた。上述したように人間を白黒付けられない事を映画では表現したかったのかな?と思うけど、この点は小説を読んでから考えてみたいな、と思いました。


もちろん、文が大学生の時にしたことは犯罪。ただ、いわゆる「毒親」に育てられ、社会での居場所を失った文と、親や保護者から真っ当な保護を受けられず、社会保障の隙間から漏れてしまった更紗が、2人でたどりついた、2人が幸せでいられる居場所。過去がどうだったとしても、現在の大人になった2人が周りから断罪され糾弾される謂れはない。見応えのある作品でした。

*追記
ところで、本作はパラサイトの撮影監督が参戦しているそうですが、文のお母さんが木を引っこ抜いて土を払い落とすシーンに、猛烈にパラサイトとの既視感を抱きました。瀟洒な邸宅の、窓から明るい外を映した様子、そして被写体をスローモーションで移す手法に共通項を感じたからかな。

*追記2
作品とは関係ないですが、本作で1000mark目でした。これからもマイペースにゆるゆる続けたいと思います。
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