タケオ

クライムズ・オブ・ザ・フューチャーのタケオのレビュー・感想・評価

4.3
-「精神世界(インナースペース)」への接触を試みる、最も官能的なセックス『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』(22年)-

 デヴィッド・クローネンバーグ監督にとって「肉体の変容」は大きなテーマのひとつだ。クローネンバーグの作品では人間の身体が崩壊し、やがて'未知の何か'へと変形していく。たとえば『ザ・フライ』(86年)では、電送実験の失敗で蠅と合体してしまった科学者が怪物へと変形する。あらすじだけを書き出せば、いたってシンプルなボディ・ホラーだ。しかし、クローネンバーグは「そうではない」と否定する。「彼は醜くなったわけではない。新たな'美'を手にしたのだ」───と。クローネンバーグにとって「肉体の変容」は'恐怖'を意味しない。それは人間が「新たな存在」へと進化するための'儀式'、いわば'祝祭'なのだ。
 本作の舞台となるのは、進化により人間たちが'病気'や'痛み'を克服した近未来。主人公ソール(ヴィゴ・モーテンセン)は、自らの臓器の摘出手術をパフォーマンスとして売り出すアーティストだ。ソールのパフォーマンスを見たティムリン(クリステン・スチュワート)は、「この手術は新たなセックスね」と言う。摘出手術のために切り開かれた傷口が'女性器'として演出されているのは明らかだ。次々と新たな内臓器官を生み出すソールのパフォーマンスは、観客たちを性的に魅了する。ソールの傷口(=女性器)にパートナーのカプリース(レア・セドゥ)が手術道具(=男性器)を挿入するパフォーマンスは、まさにセックスそのものである。「肉体の変容」を'進化'と捉えるクローネンバーグは、ソールのことを最もセクシャルな存在として描いている。
 物語中盤、身体中に無数の耳をつけたダンサーが舞う姿は強烈なインパクトを残す。しかし、本作において彼のパフォーマンスは「偽物」として扱われている。ソールの摘出手術とダンサーのパフォーマンス。両者の違いとは何か?端的にいって、それは「人間の内側=精神世界(インナースペース)」への接触を試みる行為となっているかどうかだ。ダンサーには無数の耳がついているが、いずれも器官としては機能していない。単なる装飾にすぎないのだ。ゆえにダンサーの無数の耳は、ソールの傷口のように'女性器'のメタファーとしては成立しない。「精神世界(インナースペース)」への接触を試みる行為こそが真のアートであり、そして最も官能的なセックスだという理屈が『クラムズ・オブ・ザ・フューチャー』には徹頭徹尾貫かれている。
 '病気'や'痛み'を克服した人々が、自らの肉体を弄び、改造し、そして傷つけあう姿は、いわゆる「良識派」にとっては眉をひそめたくなるようなものだろう。しかし前述したように、クローネンバーグはそんな人々の「変容」を'恐怖'としては描いていない。むしろ喜ぶべきものとして描いている。確かに描写こそ過激ではあるが、傷口を切り開き相手の「精神世界(インナースペース)」への接触を試みる行為は、すなわち「相手の全てを知りたい」という普遍的な感情を映画的な'画'として提示したものと捉えることもできるだろう。どこまでも表層的な関係に留まり続ける我ら現代人と、過激な手段をもってしても相手の「精神世界(インナースペース)」への接触を試みる未来人たち。いったいどちらが真に'人間的な営み'だといえるのだろうか?
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