フォークナーや幸田文を読み、カセットでヴァン・モリソンやパティ・スミスを聴き、境界知能みたいな後輩にも優しく、目の前で着替えようとする十代の可愛い姪と裕福そうな妹がいて、狭いながらも隅田川近くの幽玄な2階建に住むトイレ清掃員。
いないだろ。
その清掃シフト先も悉くお洒落アートなトイレで糞尿こびりつきの汚さとは無縁で、またトイレ清掃中にJKが入って来たらさっと作業を切り上げて個室を出、音が丸聞こえであろう位置に紳士の姿勢で待機し、それが絵になる男。
いないだろ。
日本のどこかに、近い感じの人がいないことはないかもしれないが、また、いそうもない新しい人物像を作り出すのが作品なのかもしれないが。やはり、ステレオタイプな人工造形に違和感を拭えない。
ルー・リードのPerfect Dayとかも使い方がベタすぎて。ヴェンダースの作品にルーが出たのももちろん見てるけどどうも。名曲の威を借りた自己陶酔。
東京画からまったく進化してないな。あのときも小津への憧憬は持ちつつ、東京をステレオタイプなイロモノ目線で描き、電動こけしばっか映したり。
初期のいくつかの作品除いて、センスない監督。
同じく小津をリスペクトし、抑制のとれた優れた作品を作るケリー・ライカートがいま光りまくってるだけ余計に悪目立ちしてしまう。