ブラックユーモアホフマン

月のブラックユーモアホフマンのレビュー・感想・評価

(2023年製作の映画)
3.9
『愛にイナズマ』と続けて見てよかった。裏表のような2作。

【共通点①】
・ずっとこうやってきたからっていう習慣から来るルールみたいなものを疑わず、それはそういうものだから仕方ない、変えられない、と言って変えようともせず、むしろそのシステムに怠けて楽をし、その勝手に決めた「普通」を他人に押し付けようとして、そこに当て嵌まらない人を排除しよう、そういう人は排除されても仕方ない、と考えている人たち
・つまり「嘘」をついている人たち
・そういう見て見ぬふりができるズルい人たちが、大抵は得をしている
・それはつまり、ある人にとって不都合な「真実」は隠されるということ
・そのこと、そんな人たちに対して憤る人
・それは、特に表現活動をしたいと思っているけど上手くできていない、夢追人の女性
・見て見ぬふりをせず真面目に向き合ってるからこそ、不器用で馬鹿だと思われ舐められて、不当に損を被らされている

だけど、正直者が馬鹿を見るのはおかしいよね、とかそんな単純な話でもない。
時に嘘も必要だし、正直さが全て正義だと言っているわけでもない。

【共通点②】
・死んだ生き物の肉が、レールで次々に運ばれてくる場所(あちらは食肉工場、こちらは回転寿司)

つまり殺害の現場は見えない、というこれも臭い物に蓋をするシステム。
理由や意味はやたらに求めるくせに、見たくないものは見ないという、都合のいい人間の習性を痛烈に批評している。痛い所をつかれた、と感じる人ばかりじゃないだろうか。

ちなみに例のシーンでも、”殺害の現場”は見せない。彼が「音と匂いにはこだわった方がいいっすよ」と言うあの言い方、軽薄極まりない。嫌悪感を抱く。いっそんの演技が素晴らしい。それに抗うように、そのシーンを回想としてもう一度見せた後の、最初の殺害では音がない。この映画は彼の考えに賛同しません、という宣言だと思った。でもその割には、それ以降は音がついている。一貫してないんだ、と思ったけど、残酷さを、ショックを与えない程度に、でもちゃんと描くということも確かに大事だと思うので、そういうバランスなのかなと思った。

【共通点③】
・世の中には突発的な、理由も意味もないことも起こり得るという事実
・に対して、それを認めたがらず、やたらに「理由」とか「意味」を求めたがる人たち、そんな人間が持つ習性(既存のルールを疑わない人たちに繋がる)

『月』は東日本大震災以降、『愛にイナズマ』はコロナ禍以降を舞台にした映画だということが強く意識されていた。
なんか最近、世の中おかしいよな、起こっちゃいけないこと、起こるわけないと思っていたような、想像を超えてくるような出来事が幾つも起こっちゃってるよな、という感覚がある人は多いと思う。今のパレスチナで起きているイスラエルによる虐殺もそうだけれど。
安倍晋三が銃殺された後に足立正生が『REVOLUTION+1』を撮って、すみませんまだ見られてはいないのですが、そういう映画が作られたこと自体は大事だったと思うのですが、しかし、本当はその事件が起こる前に撮られるべき映画だったんじゃないかと思っている。
こんなことが起こって、創作なんかに、芸術なんかに、映画なんかに何ができるんだよ、そんなもん作って何の意味があるんだ、何の為になるんだ、っていう問いに対して、石井監督は、この2本を作ることで、賛否はあるだろうけど、少なくともめちゃくちゃ闘ってると思った。

二階堂ふみが、「才能ないのって案外しんどいんですよ」と言うが、これは優生思想にも繋がる。才能がない自分には生きる価値がないと思っている。
障害がある人に生きる価値がない、わけがないのと同じように、才能がなければ生きる価値がない、わけがない。
結局、生きる「意味」を求めている。人は生きる「意味」を求めたがる。でも元来、そんなものは誰にもない。故に、社会の役に立とうが立たなかろうが、人に迷惑かけようがかけなかろうが、生きてていい。要らないなら死んでいい、わけがない。
そもそも社会なんか一部の人間にとって都合のいい形に、一部の人間によって勝手に作られただけのものなのだから、それにそぐわない人間だって居て当然だし、無理やり社会が求める型にハマろうとする必要はない。社会のルールに従うことを苦と思わずに生きていられる人は、たまたまその型にハマるように生まれ育つことができただけ、運がよかっただけなのに、それが、それだけが”普通”だと考えて、その型にハマらない人を”普通じゃない”と考えるなんて、傲慢だし、頭が固い、端的に言ってバカ。バカであることを自覚できていないから余計にバカ。人間ってもっとデカい存在のはずだ。社会なんていう小さい枠にはそもそも収まらない。人間って、人間が考えてるよりも多分もっとずっとすげえんだぞ。

さとくんも、ルールを疑わず不都合なものを見ようとせず普通を押し付けてくる人や社会の構造に憤っていたはずなのに、結局自分も別のルールに縛られるようになってしまい不都合なものを見ようとしなくなり自分の普通を押し付けてしまったのだ。

『月』も『愛にイナズマ』も「嘘」の階層が何段階にも重ねられているように思う。その複雑さこそがこの社会なのだとでも言うように。

【共通点④】
・クリスチャン

生きる「意味」を求めたがる人間が必要に駆られて発明したのが宗教なのではないか。しかしその人たちもそれだけで幸せになれているわけではないことも描かれる。両方の作品で。
『月』では冒頭で旧約聖書の一節が引用される。二度あることは三度あるみたいな。分かりやすくナチスの例が本編中でも取り上げられているように、人類はこれまでにも愚行を何度も何度も繰り返してきてしまった。そしてこれからも繰り返され続けてしまう可能性がある、しかしもう繰り返してはいけないんだ、ということを言うために、この映画は作られたのではないかと思う。

主人公が作家で、しかし震災を扱った作品を書いたとき、編集者によってポジティブなところだけ描いてネガティブなところは書かないことにしましょう、そういう作品で社会を明るくするんです、と説き伏せられて自分の意向に反した作品を発表することになってしまい、しかもその作品がヒットしてしまったという経験から、それ以降なにも書けなくなってしまったという設定は、
本筋に関係なさそうに見えて、
主人公の初めての子供に心臓の病気があり3歳で亡くなってしまい、新しく子供を身籠ったが、また病気を持っていたらどうしよう、と不安で怖くて、中絶も考えた、ということと重ねられている。
よく作家にとって作品は自分の子供のようなもの、と言うけれど、本当の人間の生き死にと比べられるようなものでは、やはりさすがに、ないと思うので、この設定は扱っている問題を矮小化しかねないとも思うけれど、監督、原作からこの設定なのだとしたら原作者、が、あまりに大きな問題に対して、自分ごとに引き寄せないと書き切れないと考えて、この主人公の設定を、作家にとっての、せめてもの拠り所にしたのではないかと思う。
そして、主人公が体験した、編集者の”全然分かってない”対応は、これもまた臭い物に蓋をしようという人間の醜い習性であり、そういうシーンを描いたことは反転して、この世には目も当てられない、できれば見たくない、そういうものもあるんだっていうことを、ちゃんと皆で見ようとする努力をして、考えていかなきゃいけないんだ、っていう、この映画自体の姿勢に繋がると思う。

ホラー映画かのようなシーンも多くあり、その手法自体は危ないな、大丈夫か、と心配にはなったが、ホラー映画というのも元来、できれば見たくないものを皆で見るという装置だと思う。そこが、ホラー映画の存在意義だと思うので、この映画がそういった表現に近づくことには必然性があったとは思う。

しかしキッッッツイ映画だった……。
でも見なきゃいけない。
この映画はこの映画なりに、やり切っていたと、自分は受け止めた。

【一番好きなシーン】
夫婦には吉報が訪れている裏では凄惨な出来事が起きているというカットバックの意地悪さ。