きみは知っているか、
人間がどこまで「きみ自身」であるか?
どこまで愚かであるか?
そしてどこまで裸であるか?
バタイユ『マダム・エドワルダ』
人は服を着る。
TPOに応じた服を着て社会に溶け込んだり、
奇抜な服を着て自己主張したりする。
どちらも"見せるための自分"を作っている。
作られた自分は果たしてホンモノか?ニセモノか?
自分で意図的に着ているのであればその選択自体が自分を表すものの1つかもしれない。
では「地元名士の娘」という着せられた服の場合はどうか?
「ストレートを装うゲイ」「遊び上手な孤高のゲイ」という本意を隠すための服ではどうか?
それを纏う自分は本当に自分だと言えるのか?
真奈美にとっては性の解放が服を脱ぐことだったけど、
潤はまた違ったのだろう。