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ヤジと民主主義 劇場拡大版のBeのレビュー・感想・評価

3.9
ヤジを警察官が制止するとか、それが民主主義にとって大問題とかって、正直言ってどうでも良かった。自分はどう生きるべきかずっと考えていた(大げさですが)。

安倍首相(当時)の応援演説中にヤジを飛ばす二人、自らの信念に従い多分、後悔のない行動をとる二人を観て、自分が情けなくなったから。

他人と比較し、理不尽と思っても唯々諾々と従い、行きたくもない飲み会でお追従のつくり笑いを浮かべ、陰口を独り言でつぶやく。

「すまじきものは宮仕え」とは思っても、生きるためにはやむを得ない、それが大人ってものだろう、と諦め、我慢する。

でも、元アイドルのあの人はこんなことを言っている。

<組織の中にいる間は、組織のルールや付き合いがあるので、そこを侵すようなことってあまりしてはいけないと思うんです。でも私にはもっと言いたいことや、やりたいことがあった。中にいたらルール違反になるので、だったら出るしかないなという感覚がずっとあって。それで、親より長い関係のあった会社とじっくり話し合って、いまでは自由になりました。>
(https://bunshun.jp/articles/-/68351#goog_rewarded)

大半の組織において、その中の人はヤジを飛ばす自由があるとは感じていないだろう。だからヤジを飛ばす二人は、少しの人にとって眩しく、多くの人には目障りだろう。

とかウジウジと考えているうちに、昔読んだ本のことを思い出した。

『人生を<半分>降りる』(中島義道・著)。

<(「人生を<半分>降りる」は、)言いかえますと、「<半分>隠遁する」ということです。<半隠遁>は世間的にある程度のことをなしとげたあとに、あるいは自分の能力と仕事を見限ったときに、あるいは出世ゲームが心底虚しく感じられたときに実践するのがいちばんいい。まだ「一花咲かせたい」などというイジマシイ野心を抱いているあいだは、難しいでしょう。>

<五〇歳になって痛感しているのですが、人生はゴマカシの連続である。しかし、自殺することも完全に世を捨てることもやはりゴマカシだとすると、ゴマカシに徹して生きるほかない。なるべく自分の「かたち」に合ったゴマカシをたんねんにつくりあげるほかない。>

<(略)<半隠遁>に適しているのは次のような人です。(略)ひとことで言えば、何をしても納得がゆかず何をしても不満足で何をしてもつまらない。死にたくもなし、このままダラダラ生きていくことも耐えがたい。>

<こんな人は、ぜひ残りの人生を<半分>だけ降りて、自分の人生の「かたち」をつくることにいそしんでもらいたいのです。つまり<半分>は社会的に生きてゴマカシを続ける。しかし、残りの<半分>は、けっして妥協せずに自分の内部の声を聞き分ける(としても全体としてゴマカシであることに変わりませんが、それでいいのです)。>

<そして、こうして<半分>だけでどうにかして人生を降りることに成功しますと><世間に期待することも、世間から期待されることもかぎりなく薄くなり、世間のしがらみから、そのギッチリした価値観から自由になる。まっ、ひとことで言いますと世間から相手にされなくなるということです。>

<ですから、−−当然の帰結ですが−−「哲学的な生き方」をまかりまちがって選ぶと、あなたはかならず(世間的には)「不幸」になります。そして、それでいいのです。まさにこうした不幸を選び取ること、不幸を覚悟し、不幸に徹して生きつづけること、これこそ<半隠遁>の醍醐味なのですから。>

この本を読んだのは16年以上前。思えば、無意識のうちに<フツーに暮らしていて、世間から「アイツは気に入らないが、まっ、しかたないか」と思われること。見逃してもらうようにする工夫すること>を、工夫不足ながらも、性質故に、実践してきたかもしれない。

ヤジを飛ばす度胸もなく、あの人のように仕事を選ぶ覚悟も能力もない自分に実現可能そうな選択肢あったと思えると、少しだけ安心する。そのきっかけを与えてくれた本作、もう一度観たら、民主主義のことを考える余裕があるかな。
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