グラビティボルト

異人たちのグラビティボルトのレビュー・感想・評価

異人たち(2023年製作の映画)
4.0
染みた。
大林宣彦「異人たちとの夏」を前提にした映画がこんな繊細な、ケレンを前半部で抑制した我慢強い映画になるとは思わなかった。
アンドリュー・ヘイという作家は、過去作から一貫して画的なケレンを最終盤まで排した禁欲的な作品を撮るイメージがあったが、そのスタイルで抽出できる最高傑作ではないだろうか。

ガラスに映る己を見詰めるショットの多用や、ピントの合わない画面奥に在るモノへの意識が凄く高い、細かい画面設計の行き届いた映画だと思う。
積極的に観る事を要求する。

アダムが母親にゲイをカミングアウトするものの受け入れられず、後に父親に話す場面が凄く印象的。
幼少期から遡っていく会話の時に父親からアダムに切り返すと座るアダムのピントの合わない向こう側に彼の少年期の写真が映る。
父親は朧げな少年期のアダムに話し掛けてる事を示唆するショットだ。

残忍な虐め(受けた暴力を一つずつ思い返す様の痛々しさたるや!)をアダムが受けていた事を悟りつつ寄り添えなかった父親の弱さが明らかになり、父親が立ち上がって再びアダムと切り返される。
位置関係が微妙に変わる事でアダムを中心に据えたショットになり、背後の写真が隠れる。
過去の後ろめたさを開示した父親が、初めて現在の息子に向き合う事ができる。

この後にアダムが思わず落涙して顔を手で覆い、父親がゆっくり抱擁する場面になる。
ここで鏡越しのショットになって、抱き合う父子と少年期の写真が反射して映る。
過去の自分が父親に受け入れられた今の自分を見詰めるショットになる。地味だけど滅茶苦茶凝ってるし重要な場面だ。

今のありのままの自分を受け入れられる。アダムにとっての最高の喜びだし感動的で、ハリーとの関係も性描写含めてグッと進展するんだけど、それだけで終わらないのが本作の凄い所だと思う。
これを契機に自分をわかって、傷を癒やしてくれる相手に一方的に依存する危うさにカメラが向く。

はっちゃけたハリーとアダムがクラブでヤクを吸って以降のモンタージュがただのオシャレモンタージュで終わらず、「鏡を視る」という一貫したシチュエーションから導入する事で鏡像なのか実像なのか?現実なのか夢なのか?が曖昧なまま傷をソウルメイトに癒やされる居心地の悪さが際立つ。

大林宣彦版の名取裕子が頭にあるから、ハリーがアダムを惑わす怪物かと察して視てるので、母親とのベッドでの会話に彼の掌がフレームインした時に「まさしく!」と膝を打つ。
しかし本作は、ハリーを一方的に切り離すべき怪物として扱わない。

主要二人を年齢差のある同性愛者にする事で、ジェネレーションギャップと同じ生きづらさを共有出来る関係にした事は活気的なんだけど、それでも劇中の大部分はアダムがハリーに癒やされる体で進行する。
だからこそ家族にしろ恋人にしろ依存する事の危うさを示すアダムの発熱がある。

終盤で、アダムを癒やしていたハリーも修復不能な心身の傷を負っていた事が開示されるんだけど、ここでピントをボカしながらも
「部屋の奥に在る肉体」の痛々しい損壊ぶりを悟らせる画作りが見事。
アダムが両親の死に様を克明に話す場面と良い、本作は生々しい痛みの存在を描写する。

もう取り返しの付かない、どうしようも無い不幸や暴力を明示するからこそ本作クライマックスの「死神を追い払ってやる」というハリーに対するアダムのケアが響く。
この瞬間に一方的にハリーが癒やす関係性に変化して、少しずつカメラが引く事であのラストショットの情感に繋がるのも見事