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サンクスギビングのkuuのレビュー・感想・評価

サンクスギビング(2023年製作の映画)
3.7
『サンクスギビング』
原題 Thanksgiving  映倫区分 R18+
製作年 2023年。上映時間 106分。
クエンティン・タランティーノ監督とロバート・ロドリゲス監督がタッグを組んだ2007年の映画『グラインドハウス』内に収録されたイーライ・ロス監督によるフェイク予告編『感謝祭(Thanksgiving)』を、ロス監督自らのメガホンで長編映画化。
出演はパトリック・デンプシー、アディソン・レイ、マイロ・マンハイム。

感謝祭発祥の地とされるマサチューセッツ州プリマス。年に1度の祝祭に人々が沸き立つ中、ダイナーで働く女性が何者かに惨殺される事件が起こる。
その後も相次いで住民たちが姿を消し、感謝祭の食卓に並ぶご馳走に模した残酷な方法で殺されていく。街中が恐怖の底に突き落とされる中、地元の高校生ジェシカたちは、ジョン・カーヴァーを名乗る謎の人物のインスタグラム投稿に自分たちがタグ付けされたことに気づく。
投稿を確認すると、そこには感謝祭の豪華な食卓とともに、ジェシカたちの名札が意味深に置かれていた。

映画のキャッチコピーは『食材は、住民。隠し味は、復讐』。
イーライ・ロス監督はいつもゴアフェスが大好きで、今作品もその例に漏れないが、彼は社会風刺の端っこをうろつく傾向があり、今作品の場合、自分の映画をどこまで真面目に撮っていいのかわからなくなっているよう。
サンクスギビング(感謝祭)のように、本質的に危うく(植民地の歴史! 先住民の大量虐殺!)、本質的にくだらん(不器用な家族の夕食! 七面鳥!)題材では、おそらくこうなるはずだ。。。そうじゃない!
その代わり、今作品は相反する衝動に囚われている。
社会を風刺したいし、古典的なキャンピー・スラッシャーにもなりたい。
その結果、ホラー・ファンの想像を掻き立ててから16年後にようやく劇場公開されるという待望の作品であるにもかかわらず、まるで別の映画の束のような印象を与え、その中で、2023年版『ピープル』誌の『最もセクシーな男性』に選出されたパトリック・デンプシーが、別の映画の撮影現場から迷い込んだ役者のようにぼんやりと彷徨っている。 
今作品は、ロバート・ロドリゲス監督の2007年のカルト的人気作『グラインドハウス』が原点にある。
70年代のグラインドハウス映画のグロテスクでいかがわしい美学へのオマージュである『グラインドハウス』は、実は2つの異なるホラー映画である。
ロドリゲス監督のホラーコメディ『プラネット・テラー』と、クエンティン・タランティーノ監督の復讐劇『デス・プルーフ』である。
両作品の前後には、多くのゲスト監督が70年代風の架空のホラー映画のパロディ予告編を寄稿した。
実際、ロドリゲス監督の『マチェーテ』やジェイソン・アイゼナー監督の『ホーボー・ウィズ・ア・ショットガン』など、いくつかの予告編はそのまま長編映画となったほど。
多くのファンのお気に入りのひとつは、イーライ・ロスが手がけた『Thanksgiving』ちゅう架空の映画の予告編で、かなり聞き覚えがある。
オリジナルの『グラインドハウス』の予告編は、70年代の搾取映画の典型的な雰囲気を伝えている。
血なまぐさい場面、セックス、淫靡な雰囲気が満載。
スクリーンの中で起こっていること、薄汚れたフィルターなど、映画そのもののルックスのせいで、不気味さを感じる。
これはグラインドハウスの基本的な美学と云える。
大げさなゴア描写に、違法な性描写やサイコセクシャルなテーマがミックスされ、すべてが汚れの層でコーティングされている。
もちろん、オリジナルの予告編は完全にジョークやったので、感謝祭の大虐殺の死語的なシーンでさえもコメディの色合いを帯びている。
ハロウィーンのオマージュから、歴史あるプリマスの健全な感謝祭パレードの映像や風刺は随所に見られる。
サウンドトラックは、血の滴るフォントの向こうで、ぎゃあぎゃあと音を立ててた。
この架空のThanksgivingが何であれ、観てる側にとってはショッキングであり、まったく不真面目なものです。
今作品は予告編を見ただけでもわかるように、見た目も雰囲気もずいぶん違う。
ゴア描写は相変わらず多いが、最初の予告編にあったようなバカバカしい場面がいくつも出てきても、トーンは大げさな不条理さよりも重厚さを増している。
低予算の搾取映画のオーラを出すのに役立った、オリジナルのぎこちない編集や手ぶれするカメラワークは、薄暗いフィルターや爆音のシンセサイザー・サウンドと同様にもうない。
その代わりに、感謝することを歌ったビング・クロスビーの陽気な曲と、スタイリッシュでモダンなホラー映画の美学が、『ハロウィン』3部作のような、よりアーティスティックなホラー・スラッシャーと『Thanksgiving』をうまく融合させていた。
しかし、今作品は同類には及ばない。
ブラックフライデーの暴徒が徐々に制御不能な熱狂を高め、最後に本当に恐ろしい消費者主義の狂乱を解き放つというもの。
しかし、この見事なオープニングが社会批評の地雷原を用意したにもかかわらず(そしてロスがこの映画の社会意識について語ったにもかかわらず)、映画の残りの部分はほとんど社会批評を横取りし、一般的なティーン・スラッシャーの復讐劇に終始している。
『SUITS/スーツ』のリック・ホフマンでさえ、最後の少女ジェシカ(ネル・ヴェルラック)の父親役で小さな役を真剣に演じているが、スクリーン上の淡白なキャラ・ダイナミクスを緩和することはできない。
登場人物が死に始めると、インパクトに欠ける。
また、この地域の出身であるロスが、実際のプリマスが感謝祭のお祭りを極めて真剣に受け止めていることを探る機会も逃している。
巡礼者の仮面をかぶった不気味な殺人鬼(実在のプリマス植民地総督ジョン・カーヴァーにインスパイアされたそう)が、この祝祭を効果的に操ることができるということが、何を意味するのかを解明する真のチャンスがある。
せや、恐ろしい仮面をかぶった殺人鬼が、感謝祭でおなじみの風習を歪めるというコンセプト以上に、今作品が語るべきことはあまりない。
多かれ少なかれオリジナルの『グラインドハウス』の予告編から引用されているシークエンスでさえ、文脈からすると退屈に感じられる。
彼らの運命を気にかけさせるには、登場人物への投資が少なすぎるせいなのか、あるいは、かなり独創的な殺しがいくつかあるにもかかわらず、ストレートな表現がすぐに陳腐に感じられるようになるせいなのか。
また、オリジナルの下品でシュールな雰囲気が、すべてのゴア描写に効果を与えているとも云える。
オリジナルの予告編にあったように、トランポリンの上で男根を串刺しにされそうになっているチアリーダーを登場させ、彼女の死を真剣に受け止めるよう求めた途端、場違いで無調な感じがする。
ベタな殺人事件と、謎を解こうと地味に努力する地元の町民たちのシリアスなシーンが並べられると、この効果はさらに高まる。
今や、ホラーの新たな黄金時代に生きているというのはよく知られた話やけど、これは両刃の言葉だとも云える。
平均的で申し分のないホラー映画でさえ、このような高尚なレンズを通して見られるようになり、『高尚』でないホラーのストーリー展開に過度な期待を抱く観客を生み出していることは間違いない。
また、その黄金時代に貢献しなければならないというプレッシャーも、映画製作者に与えているのは間違いない。
しかし、現実を直視したら、ホラーの基本的な、試行錯誤を重ねた真の楽しみの多くは、シュロック(低品質とみなされているホラー映画のサブジャンル)、ショック、粗雑さと個人的には思う。
本当に必要なのは、粉飾することなく、ちょっとしたことかもしれへん。
『グラインドハウス』は公開時には商業的に失敗したが、その後、このジャンルの宝として広く評価されるようになった。
それでも、安っぽい低予算のショック映画以上のものを提供しなければならないというロスのプレッシャーは本物だったに違いない。
今作品の問題は、ロスがこの映画を生意気なグラインドハウスのパスティーシュから、より芸術的なトーンのものへと進化させようとしたこととは限らない。  
感謝祭の連続殺人犯をめぐるストーリーにシリアスなアプローチを取ると、冒頭でほとんど台無しになってしまう。
少なくとも、もっと練られたキャラと説得力のある殺人鬼が必要。
しかし、本当に必要なんやろか?
おそらく必要ないかな。
ロスがブラック・フライデーの冒頭で、現代の消費主義に対する『ドーン・オブ・ザ・デッド』的な批評を展開したが、そのポテンシャルを無駄にしてしまった。
しかし、社会風刺をうまく描くにはフォロースルーが不可欠であり、ロスは結局のところ、消費主義という概念そのものや、消費という観念をアメリカ人のアイデンティティと結びつける何世紀も続く伝統としての感謝祭にダーツを向けていないかな。
彼は一応の動きを見せるが、そのほとんどは、バランスを取る必要のないストーリーにバランスを取ろうとするあまりに忙しすぎて、結局のところ映画全体のバランスを崩してしまってた。
書いてて何が云いたいのかわからなくなりました。。。
kuu

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