オーウェン

魍魎の匣のオーウェンのレビュー・感想・評価

魍魎の匣(2007年製作の映画)
2.0
原田眞人監督の作品では多いのですが、役者が台詞を「人ごと」のようにしゃべる、台詞の棒読みをするのがいつも気になっています。

これは、脚本が悪いのであり、カンバセーションではなく、状況や知識の説明をとうとうと役者にしゃべらせることから来ています。

京極夏彦の小説の場合、表現が韜晦とこだわりに満ちているので、原作に引っ張られて、脚本も長い文章になるのかもしれませんが、それでは映画が原作に負けてしまいます。

役者が、長い廊下を歩きながら話をして来るシーンなどで、そういう場合が多いのですが、この映画でもまさにそういうシーンがあります。
長い廊下は、映像的な必要から使われたのではなく、長たらしい台詞を「人ごと」のようにしゃべらせ、説明情報を流してしまうために要請されたのだと思う。

時代は、死体の転がる戦場で、阿部寛が宮藤官九郎を助けるシーンから始まり、やがて1952年の「東京」という特定の時代と場所に移ります。
ところが、下町の東京として設定されているシーンに、いきなり「中国人」の集団が現われる。

衣服は、終戦後の東京で見られた人々のかっこうをまねてはおり、看板や貼り紙は日本語ですが、物腰や顔は明らかに「中国人」であり、路地の雰囲気も、また川べりに建つ家々も、「中国」のものなのだ。

むろん、これは、「戦前」「戦中」の雰囲気に似た場所が、中国や韓国に残っていることを利用したのだろうが、京極夏彦の世界には合わない。
もし、中国の風景を使うのなら、そのものズバリでいいと思う。

戦前から、遺伝子操作のような実験をしていたという設定のマッドサイエンティスト、美馬坂幸四郎(柄本明)の実験室である、巨大な発電所跡のような建物は、いかにも国籍不明で悪くない。

だが、話が集中的にこの場所に移る後半は、ほとんど「007 ドクター・ノー」のような展開になってしまう。
まだ、多少原作から継承されていた「怪奇性」や「神秘性」が、久保竣公(宮藤官九郎)の心理的なレベルに「世俗化」されてしまっている。

彼は、幼い時に、実験で使われて廃棄されるために箱(「匣」)につめられた少女の死体を見て、心の傷を負ってしまったということになっている。
これでは、「陰陽師」の京極堂(堤真一)の出番はない。

実際、彼は、今回、つまらない「探偵」になりさがっています。
その妹で、彼のアシスタント役の中禅寺敦子(田中麗奈)も、安っぽい役柄に甘んじなければならなかった。

時代考証に凝っているかのようでいて、黒木瞳が「映画スター」として演じる、モノクロ映画が上映されるシーンでは、刀が触れ合うと、派手にチャリンチャリンと音がし、刀が身体を斬る時にも「バッサッ」というほど派手ではないとしても、かなりの音が出る。

しかし、そのシーンは、恐らく戦前の映画を上映しているのを、刑事の宮迫博之らが1952年に映画館で、そのリバイバルを観ているという設定だから、そうだとすると、戦前の映画がそういう音響効果を使っていたということになってしまいます。

言うまでもなく、そういう音響効果は、1960年代後半以後になってようやく登場するのですから、このシーンは、時代考証的にはいい加減ですね。

この映画の失敗は、原田眞人監督が、京極的な「遊び」に徹底できず、「社会性」とか「時代性」といったものに、後ろ髪をひかれたことに最大の理由があるような気がします。

宮藤官九郎が演じる一人の青年の生い立ちと、幼い時代の「トラウマ」、そして悲惨な戦争体験といったものへの「ヒューマニスト」的なこだわりが、そんなものは「美学」のために捨てることのできる京極夏彦の世界と齟齬をきたしてしまっているのです。
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