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土曜夫人のotomisanのレビュー・感想・評価

土曜夫人(1948年製作の映画)
3.9
 政治資金欲しさに娘(水戸)を闇屋(河津)に売り飛ばす父親に娘の方から三下り半を出す。戦争に負けてあれこれ変わった日本だが、こんな父ちゃんがいつか組閣することを金権力を豪語する闇屋から嘱望されるような国に何の希望が持てるだろう。
 だから日本最高額の女は自分の意志でダンスホールにパートナーとして身売りする。しかし、社交ダンスという芸があるから身体まで売りはしない。そこが軍国教育漬け、軍需工場では働き詰めにされた一般子女と上流人士の子女の違いだろう。この撮影と同じころ菊池章子の「星の流れに」がひっそり発売される。

 空襲を目こぼしされた京都には水商売のノウハウが昔ながらに温存されて復興首都への進出の期を窺っている。そんなキャバレー十番館の後ろ盾もかの(河津)で、そうとも知らず同じ店のダンスホールに彼を嫌悪する(水戸)も所属してしまうというので話が早い。
 事件は(水戸)の同僚で親友の急死に始まって、その前後で(水戸)を狙い撮りする写真家(若原)と、その行方を追う(水戸)との恋愛寸前までを軸に進み、それを写真家の横恋慕と見做す(河津)との対決に向かうかと見せる。
 その横では理財に長け(河津)とは同類の侯爵、(水戸)を思慕する厭世的な若者(片山)、(水戸)と(若原)双方を意識するこまっちゃくれた盗人、兵児帯おチマが出番を窺うが原作者織田の急死のせいだろう一波乱削られた具合で持ち腐れな感じだ。

 原作が尻切れとなり、性急に終うべく強欲旺盛な大人たちが退場する一方で、(水戸)サイドの若者らも(水戸)自身、親友の死、(若原)も求愛者死別、(片山)の(水戸)恋しの失速、錬金術をしくじった父親の脱獄によるおチマの失意とさっぱり盛り上がらないまま皆ばらけていってしまうのが惜しい。
 そんな中、(片山)が(水戸)に思いをうっかりぶちまけた末の羞恥から寄る辺を失い、盗人おチマに語る都落ちの夢が悪い大人たちの脂ぎり振りと正反対で後年の中年男、車寅次郎の漂流譚のようである。敗戦で信念を失い悪所をさんざん経巡ってやっと感じた憧れの(水戸)も遂にしくじってどうとでもなれと語る言葉の情けなさにおチマも聞いて呆れるらしい。
 しかし、それが妙に引っ掛かるのもこの二人が目下物語の最年少だからだろう。そして、物語の決着もこの失意の(片山)の最後の血気によって付けられ、それが結果(水戸)を(若原)側に押しやる格好になるからである。
 原作織田がどう思っていたか知れないが、もう一波乱の末、(片山)の生死はともかく、おチマ・(片山)を添わせる腹だったに違いあるまい。

 進駐軍の艦船を茫洋として眺め渡す「港の見える丘」が流れてたところに、撮影のころ「星の流れに」が聞かれはじめ、封切り時分には「ブギウギ」が鳴り出す。
 変われとどやされる時代、悪事も千里を走ればあっさり倒される。対照的に主人公たちのおっとりと動じない様子がおかしいくらいの物静かさで、それこそ(片山)が憧れた美しいもののような、こんな世相であれ、痩せても枯れてもああであって欲しいと願う織田の思いであったかもしれない。
 しかし、おチマ以外、とは言えおチマとてお愛想、作り笑顔にすぎないのだが、若い彼等の誰も笑みを見せない事にこの時代の本質の過酷さが感じられるのだ。
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