タケオ

地獄の黙示録のタケオのレビュー・感想・評価

地獄の黙示録(1979年製作の映画)
4.2
-泥沼の末に生まれた、究極のベトナム戦争映画『地獄の黙示録』(79年)-
 
 かつて監督のフランシス・フォード・コッポラは、長谷川和彦とのインタビューで本作について「この映画のテーマとは何か?」と尋ねられた際に、「撮っている途中で自分でもわからなくなってしまった」と答えている。無理もなかろう。本作『地獄の黙示録』(79年)はベトナム戦争を再現するつもりが、ついには映画製作そのものがベトナム戦争のように泥沼化してしまった、映画史に残るトンデモ作品だからだ。
 舞台は1969年。かつてCIAの秘密作戦に従事していた経験を買われたウィラード(マーティン・シーン)は、アメリカ軍上層部から元グリーンベレー隊長のカーツ大佐(マーロン・ブランド)を暗殺するよう依頼される。カーツはかつて優秀な軍人であったが、戦争の矛盾や欺瞞に耐えきれず軍の命令を無視するようになり、カンボジアのジャングルの奥地に勝手に自らの王国を築いてしまったのだという。依頼を引き受けたウィラードはベトナムの河川哨戒艇に乗り込み、乗組員たちとともにカンボジアの奥地を目指す。行く先々で、ベトナム戦争の狂気を目の当たりにする一行たち。カーツの王国に近づくにつれ、やがて自らも戦争の狂気に飲み込まれていくこととなる───。
 よく観ればわかることだが、主人公のウィラードは登場した時点ですでに壊れてしまっている。サイゴンに滞在中のウィラードは町の景色を眺めては悪態をつき、浴びるように酒を飲み、ついには半裸で暴れ狂う。「ベトナムの前線にいない」という現状に耐えられないのだ。ウィラードは戦争中毒に陥っている。戦争の矛盾や欺瞞に疑問を抱きながらも、同時に戦争がもたらす光悦に取り憑かれてしまっている。ウィラードが本質的にはカーツに近い存在であることが、冒頭から示唆されている。
 本作の脚本を執筆したのはジョン・ミリアス。根っからのタカ派として知られるミリアスは、ベトナム戦争で兵士として戦うことを強く望んでいたが、生まれながらにして喘息を患っていたため従軍がかなわず、そのフラストレーションを本作にぶつけた。本作の脚本は、イギリスの小説家ジョセフ・コンラッドの代表作『闇の奥』(1902年)が下敷きとなっている。舞台はコンゴからカンボジアへと変更されているが、「ジャングルの奥地を目指す船乗りたちが、やがて自らの心の闇と対峙する」というプロット自体は踏襲されている。ミリアスが執筆した当初の脚本では、ついに王国にたどり着いたウィラードはカーツを暗殺しようとするものの、徐々に彼の哲学に心酔するようになり、最終的には互いに協力して北ベトナム軍の攻撃を迎え撃つこととなる。戦争の光悦に取り憑かれていたウィラードは'闇の奥'でカーツと出会い、ついに自らの居場所を見つけたのだ。ウィラードとカーツは、ミリアスが夢みたベトナム戦争の「理想」の体現者だ。ベトナム戦争への従軍がかなわなかったミリアスの理想と羨望がない交ぜになった、極めてパーソナルなファンタジー映画。それが『地獄の黙示録』・・・となるはずだった。
 ところがそうはならなかった。なんと監督のコッポラは、前述したミリアスのメッセージを全く理解していなかったのだ。くわえて映画の製作が始まるやいなや、現場ではかつてないトラブルがこれでもかと続出。巨額を投じて組み立てたカーツの王国のセットは台風で崩壊。主演のマーティン・シーンは撮影中に心臓発作で入院。デニス・ホッパーにいたってはコカイン中毒で会話すらろくにできなかった。製作期間は延びに延び、当初予定されていた予算1200万ドルは、いつしか3500万ドルにまで膨れ上がった。
 そして極めつけは、カーツ役のマーロン・ブランドのわがまま三昧である。100キロを超える肥満体型でのしのしと現場に現れたブランドは「こんな体を見られたくない」とアクション・シーンの撮影を拒否。かくしてミリアスが構想していたクライマックスの撮影は不可能となった。ブランドは台詞すらろくに覚えておらず、かと思えば突然「原作通りカーツに現地妻を用意しろ」と要求してオーディションを開催させるなど暴君っぷりを発揮し、ただでさえてんてこ舞いだった現場をさらなる混沌へと導いた。より詳しく状況を知りたい場合は、当時のコッポラの妻エレノア・コッポラによるドキュメンタリー『ハート・オブ・ダークネス コッポラの黙示録』(91年)を参照して頂きたい。いかにカオスな撮影現場であったかがよくわかるはずだ。
 ここまで撮影が混沌を極めてしまっては、監督のコッポラが映画のテーマを見失うのも無理はない。ようやく形になった本作は、前半と後半で明らかにテンションの異なる珍妙な作品として仕上がった。前半ではロバート・デュヴァル演じるキルゴア中佐の活躍や、かの有名な『ワルキューレの騎行』(1856年)を爆音で流しながらの空襲シーンなど見せ場が多いが、後半ではキャラクターたちが意味ありげな抽象的な会話を繰り広げるばかりで、盛り上がりなどあったものではない。最早なにが言いたいのかすらわからない。映画としては明らかに破綻している。失敗作との謗りは免れえないだろう。
 しかしそれゆえに本作は、他の戦争映画ではたどり着くことのできないある種の'真実'を描出することに成功している。トップの野心ばかりが先行してしまい、何一つとして計画通りにいかず、予算ばかりが膨れ上がり、当初の理想は暗闇の彼方へと消え去っていく。まさに戦争そのもの。『地獄の黙示録』は映画製作そのものがベトナム戦争の泥沼を再現してしまったのだ。混乱ゆえの、前代未聞にして唯一無二の作品である。「映画の前半だけで十分」だとか「後半は蛇足」だとか、そういう無粋なものいいはやめておこう。泥沼の末に生まれたからこそ本作は、究極のベトナム戦争映画と呼ぶに相応しいのである。
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