Fitzcarraldo

エル・スールのFitzcarraldoのレビュー・感想・評価

エル・スール(1982年製作の映画)
4.8
第19回シカゴ国際映画祭(1983)Gold Hugo(グランプリ)を受賞した寡作の男Víctor Ericeによる脚本監督作品。

Adelaida García Moralesの同名小説をもとにプロットを書き上げ、基本的には小説と全く同じだと語るビクトル・エリセ。


黒画面のタイトルバックから始まる。
JOJOに徐々に画面の右側に明かりが…
はじめは何か分からないのだが、その明かりは窓明かりだと後から分かってくる。

お洒落。

この構図も素晴らしい。

徐々に明るくなると窓際に置かれたベッドが浮かび上がる。そこに誰かが横になって寝ているのが分かる。

窓からの明かりを受けて横になる姿が浮かび上がる瞬間は、西洋絵画にある伝統的な構図を想起させる。

お洒落。

背景をボカすことしか能のないイマドキの日本映画界は、こういうのを見習ってほしい。

犬が吠え続けている声だけが重なる。

これもキチンと物語を動かすための小道具。というか演出。さりげなくてうまいなぁ。

映画ってこういうことだと思う。

朝になり少女がベッドから起きるだけの、なんてことないシーンなんだけど、劇的に違うんだよなぁ…


『海街diary』で長澤まさみが朝起きて、着替えるだけのシーンがあったけど…比べてみると全く違う。長澤まさみの下着姿を拝めるだけのサービスカットというか、エロさ優先のショットであることが分かる。

では、2つのどちらが興行収入を稼げるのかと云えば断トツで長澤まさみとなってしまうのだから、構図とか明かりの入り方に何の意味もない。

長澤まさみがどこに立とうと、その下着姿が映えるように部屋全体を明るくすることがマストなのだ…

なんとも情けない…。
と思いつつも、やはり長澤まさみの下着姿にはドキドキさせられているわけだから、偉そうなことは何も言えない。


一人娘エストレーリャと父親アグスティンを中心とした物語。

イタリア人のOmero Antonutti演じる父アグスティン。このお父さんが乗るバイクがカッコイイ!NSU(エヌエスウー)というドイツのメーカーのようである。二輪車生産台数はHONDAに抜かれるまでトップだったとか…

自動車部門も立ち上げたが、FIATに買収されたりVOLKSWAGENの傘下に入ったりと、その辺の動きは詳しくない。

とにかく、このお父さんが乗るマフラーの音が堪らない!社外なのか純正のマフラーかも分からないのだが、低い音でグルグル吠えるようなサウンドが気持ち良すぎる。

このバイクがNSUの何年式なのか、なんてタイプなのかも分からない。1956年製のスーパーマックスの写真と似てるので、この辺の時代のバイクか?1964年にオートバイ製造から撤退してるようなので、最後のモデルから映画の撮影時で、すでに20年経過してる。

映画の時点で古いバイクなので、現代で手に入るわけもなく、富裕層の娯楽品として扱われるのであろう…。

とかくいまのバイクには、こういうデザインが存在してないからツマラナイ。どこのメーカーも似たりよったりのデザインばかり。

車もそうだし、駅や建物の建築物も、街づくりまでもが前へならえで全て同じ。

先日、秋葉原へ何年か振りに行ったのだが…
駅前にデカいビルが立ち並び、ほんとにどこも同じような駅前開発をしていて辟易した。

水道橋の高校へ通ってたので帰る道すがら、御茶ノ水や秋葉原をブラブラしたものだが…すっかり変わり果ててしまって、ごった煮のような怪しさ満点だった秋葉原の良さが全く失われてしまっていた。

雑居ビルの地下へ入れば、ビニ本や無修正のエロ本などが並んでいた店とかあったのに…残念で仕方がない。


○カモメの屋敷
田舎に暮らす家族。
家の庭にある木に吊るしたブランコで遊ぶ娘Sonsoles Aranguren演じる8歳時のエストレリャ。

バイクのマフラーの音が遠くから聞こえてくると、父の帰りに気付いて家の前の道に出て迎えに行く。

主の帰りを待ち、誰よりも早く主の帰宅を察知して出迎える優秀なワンちゃんのようで、これだけで心が温まる。

父を迎えるとバイクに乗せてとせがむ娘。
父娘の二人乗りも素敵だなぁ。

あぁ〜バイク乗りたい。

しかし海外では庭の木でオリジナルブランコを作るのが主流なのかしら…『アラバマ物語』でもブランコで遊んでたような…


ビクトル・エリセは黒の使い方が素晴らしい。
全てをビカビカに明るく照らす今どきの邦画とは明らかに違う。

谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を読んで欲しいよ。
ビクトル・エリセは読んでるでしょ?ってくらい陰翳をうまく画面の中に取り入れて構成している。

『おくのほそ道』を愛読しているビクトル・エリセだから、谷崎の『陰翳礼讃』も読んでるかもしれない。


”Minari“(2020)で水源の場所を突き止めるのにダウジングで言い当てるというインチキ臭い男がいたが…エストレリャの父アグスティンも同じようにインチキな棒を使って水源の場所を指定。

その場で立ち止まり、父は片手で振り子を使い、もう片方は後ろ手に出して…娘エストレリャが父の背後へ回り、コインを1枚ずつ後ろ手の父の手に乗せていく。

何をやっているかと云うと、この1枚で1メートルの深さらしい。コインが8枚、手にのったところで振り子が止まったから、8メートル下に水源があるという…

ミナリの元ネタはここか?


エルスール=南
南から祖母とアグスティンの乳母ミラグロスが、カモメの屋敷を訪れる。

祖母
「孫の初聖体拝受に来ないわけにはいかないよ」

初聖体拝受?


○エストレリャの部屋
寝る前…

エストレリャ
「おじい様は悪い人なの?」

ミラグロス
「なにをバカなことを言って!それにね、猛獣も年とると弱くなるものよ。大旦那様も昔とは随分変わった」

うちのばあちゃんもオレの母ちゃんに同じこと言ってたな。常に不仲だった母ちゃんは、いつもばあちゃんに愚痴ってたっけ…それを聞くと、ばあちゃんは、「男なんてみんな年とれば丸くなるんだから我慢しなさい!」ってよく言ってた…「男なんて年とれば、どれも同じ」とも言ってたかな…

結局、母ちゃんは耐えられなずに離婚したわけだが…今となっては、ばあちゃんの言葉通りになったと元夫を見て母ちゃんも笑っている。

おばあちゃんの知恵というのか、長く生き抜いてきただけの経験則でのモノの見方が自然とできるようになるんだな…

Rafaela Aparicio演じるミラグロスの言語は何を言ってるかは分からないのに、言葉遣いが荒っぽいのはキチンと伝わってくる。
チャキチャキの江戸っ子であるウチのばあちゃんのようで懐かしさと寂しさとが同時に湧いてくる。

ミラグロス
「内線の前の共和制の頃は、おじい様が悪い側でパパが良い側だった。フランコが勝ってから大旦那様が聖人に、パパは悪魔になった…世の中、勝ったほうが言い放題なのよ」

【世の中、勝ったほうが言い放題】

まさにこの通りである。
歴史は勝者の歴史と云われる。
勝ったほうが自分たちに都合の良いように、上塗り書き換えを行う。

また民主主義とはいえ、数の上で圧倒的な有利となれば、不正しようが改ざんしようが国会でウソの答弁をしようが逃げ切れてしまう。

世の中、勝ったほうが言い放題やり放題。

そうさせないためにも、間違いを繰り返させないためにも、やはり歴史を多角的な視野で学ぶ必要がある。


ミラグロス
「明日は初聖体拝受でしょう。とても素晴らしい日よ。お嫁に行くのと同じ」

エストレリャ
「神父様もそう言うけどなぜ?」

ミラグロス
「私も知らないけど、お嫁さんと同じ白い服を着るのよ」

エストレリャ
「わたしお嫁には行かない」

ミラグロス
「どうして?」

エストレリャ
「お嫁さんてバカみたい。写真屋に飾ってあるのでわかるの」

勘の良い子だこと…
それだけで分かってしまうのね…

女の子なら誰もが一度は着てみたいと憧れる花嫁衣装をバカみたいと一蹴。こんなマセた子はいないだろう。日本には30歳を過ぎてもウェディングドレスを着たいとか言ってる女性ばかりだよ…

着たいんだろうけど…結婚式なんて金ばかりが倍々ゲームのように高くなるばかりで、エストレリャの言葉通りバカみたいに思えてしまう。


○教会
初聖体拝受。
親族は涙を浮かべながら、眺めている。

これは日本の七五三みたいなものかな…
我が子の成長を正装で祝いたいのだろう。

神父の前で1人ずつ跪いて、何かを口に入れられるだが…あれは何だ?500円玉くらいの大きさの銀色の物体。

七五三の飴みたいなものか?

ただでさえ他人から素手で口に入れられるのは気持ち悪いのに、コロナ禍での恐怖ったらない。いまは初聖体拝受はどうしてるのかしら?

神父は手袋してるのかな?

ミラグロスいい顔してんなぁ!ずっと涙を拭いている。マジでウチのばあちゃんに見えてきた。

聖体拝受とは…
イースト醗酵をしていない聖餅をカトリック教会では使用。小さく、薄く焼いてあるもので、ウェハースのようなものらしい。キリストの肉であるパンは、噛まずに飲み込むようにと決められているので、飲み込めるサイズになっているとか…

ということなので、エストレリャの口の中に入れられてたのはウェハースのような聖餅ということでいいのかな…あれを飲み込むのか…結構大きかったけど。


○CINE ARCADIA
この映画館はまだ実在してる?入口の上に半円形のステンドガラスのような硝子細工。この外観の雰囲気がとても素晴らしい。

いまやシネコンばかりの日本の映画館。
工場から冷凍輸送されるフランチャイズの飲食店のように、どこの街でも同じ味が食べられるのは良いことなのかもうしれないけど!街々の個性やオリジナリティは消え失せてしまうよ。

ミニシアターブームを牽引してきた渋谷のシネマライズの建物は、建築家の北川原温が「機械」をイメージして設計しドレーブカーテンのようなアルミダイキャストの外観が印象的であり、従業員の制服をミハラヤスヒロに発注するなど、かなりの個性を発出していた。

みんな同じがいい、同じでいい、同じが安心するというような没個性ではなく、どんどん好き邦題やって個性を出してほしいと思う。若い世代は平気で飛び越えるとは思うけど…これを頭の堅い、凝り固まった保守的な年配層にこそやってほしいと願う。

話が逸れた。

父のNSUバイクが駐車してあるのを、学校帰りに見つけ、中へ入るエストレリャ。

○TAQUILLA
チケット売り場。
この雰囲気も素敵…

白っぽい曇りガラスに小窓のような受け渡し口が2つ。下半分だけ開け閉めできる。
コロナ対策バッチリ。いまの簡易アクリルのようなお洒落さゼロよりも、これですよ!この重厚感で雰囲気たっぷり。

コンコンと小窓をノックするエストレリャ。
小窓を手前に引いて開ける売場のおばちゃん。

エストレリャ
「チラシ下さい」

おばちゃん
「大人の映画よ」

エストレリャ
「知ってます」

チラシを渡すおばちゃん。

エストレリャ
「イレーネ・リオスは?」
(父の引き出しに入ってた似顔絵と名前)

おばちゃん
「誰?」

エストレリャ
「(チラシを見せて)イレーネ・リオスはどの人?」

おばちゃん
「(チラシを見て)ああ出てるわね」

エストレリャ
「金髪の人?それとも黒髪?」

おばちゃん
「アロンソが黒髪だから、金髪がリオスね」

エストレリャ
「何時に終わります?」

おばちゃん
「(腕時計を見て)あと30分」

外に出ていく、エストレリャ。

いい!このシーン何とも言えない雰囲気を孕んでいて、とても素敵!

スマホ完備の今の子供たちは何でもかんでも調べる癖がついてしまっているので、こういう交流が生まれないよなぁ…

こういう小さい子供が大人同然のような振る舞いをするのを見ると嬉しくなる。

子供は子供らしく、子供というレッテルを貼るかのような演出は見たくない。

現実でも、子供は子供らしくとかいう親には反吐が出る。子供は、とてつもなく敏感だし、あらゆることを察知する能力がズバ抜けていると思う。それは自らを生かす本能のようなものだ。

それを上から何も分かってないかのように子供という烙印を押し付ける親が多すぎる。

そんな親を見てると、あなたよりも物事を分かってるよと指摘したい衝動に駆られる…が、他人が他所様の教育に口を出すのは野暮なので、黙っているが…


○カフェ
父がイレーネ・リオスからの手紙の返事を読んでいる。

カフェにあるピアノを調律師がチューニングしている。ここで不穏な音と云うか、調律の最中に出る不安定なピアノの音で、父の揺らぐ心情を表現している演出が素晴らしい!

これは、あるようでない。
なかなか思いつかない演出。
素晴らしい!

単に劇伴で表現するのではなく、そこに置いてあるピアノの調律で表現するというのは、さり気なくてとてもいい。


○ベッド下
エストレリャ
「私はある日、家の中の重苦しい空気に抗議するために、ベッドの下に隠れることにしました…。母とカシルダが心配して私を探しています。(エストレリャ!エストレリャ!と母の声が聞こえる)私は隠れたまま、沈黙で挑戦します。母たちはあちこち探している様子でした。」

あぁ確かに…こういう反発はよくしてたような記憶がある。デパートのようなところで、わざと視界から外れて隠れてみたり…でも大事になりそうな寸前で必ず出ていくのだが…あとでどえらい怒られるからね。

自分は単に拗ねてやっているくらいの記憶にすら留めないくらい小さなことだと思っていたが、【家の中の重苦しい空気に抗議するために】という台詞を見ると…確かにオレもそうだったかもしれないと思う!家の中の重苦しい空気しか記憶にないもの。その反抗というのは兄もオレも持っていたに違いない。

だから花嫁がバカに見えてしまうのだ。
だから40歳になっても婚活すらしないで平気な顔して生きてるオレかいるのだ。これは子供時代に経験した家の中の重苦しい空気への抗議なのだ。

はぁ…随分と長いこと引き摺ってる。
こうなると、行き着く先はアグスティンのように
ならざるを得ないのか…

ものすごく考えてしまう…
そんなきっかけを与えてくれた素晴らしい映画に感謝したい。




ー撮影の順序は時間の流れどおりでしたか?

ビクトル・エリセ
「そうです」

やっぱりね!絶対に順撮りだと思った。
その恩恵は必ず画面に表れる。

予算のこともあるのだろうが、効率化ばかりを考える撮影スタイルは好きになれない。

映画上では全く別の日だけど同じ場所だから、そのまま続けて撮影しましょう!っていうのは、いくら演者がうまく演じ分けていても、どうしても細部に差が出てしまうと思う。
同じ作品を順撮りと、効率よく撮った場合で比べないと、比べようがないのだがね…



ビクトル・エリセ
「いずれにせよ、ぼくは子供と仕事をするのがとても好きです。実に楽しい経験が味わえるからです。いささか我慢が必要なこともあるけれど、その価値はありますよ」

彼の作品を見ると、こちらにもそう思わせてくれるチカラがあるからすごい。確かに子供と仕事をしてみたいと思った。


武満徹と蓮實重彦の対談

武満徹
「すばらしかったのは、『ミツバチのささやき』の場合もそうでしたけど、大事な事を言う時にも、決して叫ばないし、大論陣をはらないんですよね。静かで、それでいて実に濃密で……。このところ5年ぶりで何本か映画づくりをやってみて、日本映画が、どうも何か、内的ファンタズムやイメージと関係なく、お話をつくるってことばかりに力を注いでいるような感じを持ったんです。エリセの場合、そういうところが全くない。すばらしいですね」

泣き叫べば観客に伝わると思っている日本映画界の悪しき慣習であろう。この習慣を未だに変えることができないのが情けない。

海の中に入ったり、壁を殴ってみたり、泣いて、鼻水垂らして、感情を露わにすることが、名演技だと監督もスタッフも、お客さんもそう思ってる節がある。

それを見せることができて得意気に悦に入ってる役者が多い気がする。自分のこと名優だと勘違いしている人ばかりではないか?

歴代興行収入にアニメばかりのタイトルが並んでしまうような国だから仕方ないのか…。


蓮實重彦
「くやしいほどすばらしい(笑)。エリセは、みたところ華奢な人なんだけれど、強さ――と言っても、大袈裟にどなりたてたり、他人を無視して自分だけの世界に閉じこもるといったような強さではなく、ごくつつましいコミュニケーションを信ずる者の強さ、そういう強さを改めて想い起させてくれる人だと思います。物語を考えている時に、それがもう映画として発想されているんですね。映画作家にとってあたりまえのことかもしれないんだけれども、映画がイメージであり、音であり、その交錯であるっていうこと、それをどんな条件の下でも忘れない。それ以外の要素で見る者を納得させちゃうということを決してしない。例えば、映画館から出てきた父親がカフェに入って手紙を書きますね。あそこでも、どこに座らせるかなと思っていると、窓際に座らせて、そのことが後で生きてくる、こういう配置、演出。手紙を書くということを抽象的に発想していないな、ということがまざまざとわかる。それから、ガラス窓を隔てて、父親と娘がフッと笑いあう気づまりな笑い、あれで状況というものを一瞬にして見せちゃうわけです」

武満
「あのシーン、まさに映画だなぁっていう感じがするんですね。二人のサイズが実にいいし、またちょっとした移動が見事だし……。それに物音の使い方、特に外からの音の使い方が見事だと思いましたね。例えば、駅近くの宿屋のシーン。カメラは全く動かないんだけれど、外からの物音によって空間が実によく動いている。それは冒頭のタイトル・バックの朝の光線の入ってくるシーンからすでにそうで、映画でしかとらえられないなめらかな時間の動きを見事に表現していると思うんです。言わば、ささやきかけてくる映画、ぼくたちはそれに耳をすまさなくてはならないような映画ですね」

蓮實
「冒頭の朝のシーン、あそこで、外の物音、犬のなき声、女の人の声などから、ぼくたちは、家族構成とか物語とか、わからないままに想像させられてしまう。そのぼくたちの想像の誤りがやがて少しずつ訂正されていく。こういうところは、物語作者としてもしたたかだなあ、という気がしましたね」

武満
「エリセの人柄をみてるとふさわしくない形容なのかとも思いますが、いかにもしたたか、という感じがしますね」

蓮實
「『ミツバチのささやき』の場合もそうだったんですが、エリセは、特に人を椅子に座らせる時、それからベッドに横たわらせる時が非常にうまいな、と感心したんです。テーブルで二人が向かいあうと、だいたい構図=逆構図で単調になるものなんですが、カフェにしてもホテルにしても片隅に座らせて、こんなところでいい絵ができるのかなと思っていると、ホテルの場合は、その片隅にちょうど対角線のあたりにボーイを一人置いて、その間の空間を、何もないのに最も劇的な空間になるように配置する。すばらしいと思うんですね。それから、冒頭、少女がベッドに寝ているシーンから始まって、母親が寝る、父親が寝る。その寝方、横たわり方が、映画では人間はなかなかうまく横たわってくれないものなのに、これしかないっていう形に、小さな画面の中に横たわらせていく。これにも感心しましたね」


蓮實
「ぼくが最初にこの映画をみたのは、数年前のロカルノなんですが、その時は、ああ綺麗な映画だなあ、スペインにはこんな監督がいたのかと思ってみていたんですが、正直に言って、途中まではのめりこむまではいかなかったんですね。ところが、父親がふりこで水脈を探すシーンがありますね。あそこで、少女が後ろにまわって、父親の手の中の銅貨を一つひとつ渡していく。まわりには何もない光景の中に二人だけの前後の並び……」

武満
「あそこの撮影は難しいですよ、ほんとに」

蓮實
「それだけでも、ぼくは非常に素晴らしいと思ったんですけれども、その後で、水脈を探しあてた父親が、銅貨を少女に向かってボッと投げると、少女がスカートを広げてパッと取るんですね。アッと思った。あれはジョン・フォードしかやったことのないことなんですね」

武満
「モーリン・オハラですね(笑)」

蓮實
「『わが谷は緑なりき』なんですよね。おそらく意識はしていないと思います。『わが谷』の場合は、一日働いてきた人たちがお母さんのエプロンの中にお金を投げこむわけで、父親と幼い娘というのは文脈も違うわけです。ですけど、意識はしないままに、そういうものが映画の行間にフッと出てくる。あそこでぼくはドッと泣きましてね(笑)。それから後はもう(笑)……。他にも無意識的にジョン・フォード的なことをやっていますよね。あの足音なんていうのもそうだし……」

あの一瞬のシーンだけでモーリン・オハラまで出てくるのかよ…どれだけ映画的教養があるのよ!参ったな…


蓮實
「この間、ジュネーブのオペラ座で『ルル』の演出をやっているダニエル・シュミットに会ったんですが、彼が言うには、20世紀の後半にいるぼくたちは、ある時期から、スペクタクル的なものへの感受性を失ったんじゃないか、というんですね。常に音楽を流している都会の環境とか、いつでも視覚的なものを提供しつづけるテレビとか、そういうものによってですね。僕もそうだと思うんですね。そこで、この『エル・スール』をみると、そこに感性豊かなスペクタクルの再現を感じるんです」

武満
「あ、それは、全く同感ですね。『ランボー』だとか、『スペースバンパイア』だとか、一種のスペクタクルのはずなのに、全くスペクタクルになっていないんですね。映画があれだけ大がかりになってきているのに、スペクタクル感覚が失われているというのは、実に困ったことで、それに対して、逆にこの『エル・スール』こそスペクタクルを感じさせたんです」

蓮實
「題材は時間的にも空間的にも限定されていながら、その限定を越えて広がりだしていく力をもった、繊細なスペクタクルですよね」


武満
「澤井さんなんか、たぶんこの映画、好きでしょうね」

蓮實
「ええ、喜んでました。彼は、あまりクローズ・アップを使いませんが、この映画はクローズ・アップが多いですよね。それで、どうですかって聞いたら、こういう心理の説明ではなくって、表情のよさを出せるようなクローズ・アップなら、今度は使いたくなりましたって言っていました」

映画監督の澤井信一郎かと思われる。

『大豆田とわ子と三人の元夫』を見て、ずっと不快だったのが撮影だ。ほぼ全てのカットが背景をボカしたクローズアップだった。ほぼ全ては大袈裟かもしれないが、そればかりが悪目立ちしてしまう印象。

エルスールがそんなにクローズアップが多いという印象はないのだが…それくらい寄り引きのバランスが素晴らしかったということ。

大豆田は、とにかく寄って背景ボカせばお洒落な映像だと思ってしまってる監督なりカメラマンなりの若さが悪い方に全面に出てしまった。

iPhoneだかXPERIAだか始まりは分からないが、いつしか新しいスマホが出る際の宣伝文句として、【背景をボカしたお洒落な写真が撮れる】というような文言で支配されていた時期があったように思う。

スマホのレンズが2つになった時かな?
背景がボケただけで何がお洒落なのか?
でもその宣伝文句が功を奏して猫も杓子も背景をボカしては得意気になっている。

まさに大豆田の監督は、この部類に属する。
デュアルレンズ世代と云っていい。

エルスールと比べて欲しいよ…ホントに。

大豆田の脚本はテレビドラマとしては最高だったのに…画作りが足を引っ張り続けた。



武満徹
「父親は若い時に政治運動して挫折したんじゃないか、その頃恋人がいて、今もその女を想っているんじゃないか、そんなことは、ほとんどかすかな風のようにしかわからないようになっているんですよね。ありきたりの映画では、そんな過去のエピソードがセピアで出てきたりして、ガックリくるんですがね(笑)。映画というのは、時間のコンティニュイティについて、様々な独自の表現ができるのにもかかわらず、それを生かしていないどころか、むしろよってたかってそれをだめにしている(笑)。そういう映画が多いなかで、こういう映画をみると、ホッと救われた想いがします」

蓮實
「日本でもアメリカでも、だいたい映画はだめになってきていますが、ぼくは、やはり何を言わずにおくべきかということを知っていない人が映画を撮ったらだめだ、と思うんですね。エリセは、それをちゃんと知っている。ですから、そこから、何を言わなければならないかということも当然きちんと出てくる。家の前の道をどう撮るか、道から家に入ってくる人たちをどう撮るか、こういう点については彼は徹底して追求するわけですね。ですけど、そのかわり、道の向うに何があるかは、絶対に見せない。ほとんど家の前の道しか撮らないで、後は遠ざかっていくだけだ、という、それはしっかり守っていく」

武満
「そこから、観客は、道の向うにある何かに思いをめぐらすわけだし、それと同時に、ぼくらがみせられている道自体の様々な表情に気づかされるわけです。あの落葉の道とか、あるいはブランコの音が聞こえて、それからしばらくして撮されると、ブランコのひもが切れているのがチラッとみえるとか、この辺も実にうまいですね」

ほんの小さな細部を、決して肥大化するのではなくて、鋭く記憶の中に紛れこませてしまう……。

武満
「ディテールが常にトータルなものへ広がるつながりを持っているんですね。ですから、その記憶っていうのも、目だとか、顔つきだとかの部分的な印象じゃなくて、全体的なもので、まさに「みた」っていう感じ、非常に映画的な記憶なんですね」

蓮實
「だから、ある意味では、とてもなつかしい。今までやられていなかった新しいことをやっていながら、その暖かさ故に、それが何かなつかしさにつながり、しかも、それが、ぼくたちを自堕落な形で過去に向わせないなつかしさであるっていうのがすごいと思うんです」



川本三郎
「ビクトル・エリセは、人間たちの冷えきった心を仰々しくは描かない。あくまでも気配によって描こうとする。その意味では、エリセは、身近かな小さなもの、懐かしいものを大事にしようとするアンチミストだ。ミツバチの巣箱、手紙、古い写真、オルゴール、ブランコ、古い家具、書斎に置かれた書物、絵画、セピア色の絵葉書、鏡、映画館で上映されるまで幻燈を思わせるような古い黒白の映像、自転車。

 目に見えない精霊を見ようとするエリセは、目に見えないものをことごとしく描くのではなく、逆に、目に見える小さなものを丁寧に描き続ける。神のような絶対的な超越者ではなく精霊のようなかすかなものは、むしろ、日常のなかの細部のなかにこそ潜んでいるというかのように」
Fitzcarraldo

Fitzcarraldo