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五番町夕霧楼のotomisanのレビュー・感想・評価

五番町夕霧楼(1963年製作の映画)
4.3
 からだが二つあればふた親と妹らにも会えたろう。三つあればおかあはん等にも挨拶できたろう。でも幾つからだがあっても正順にはもう会えない、だからこのからだは捨ててしまおう。捨てるなら正順が嫌った京で歪んでしまう前の素顔の正順の居場所に戻ろう。渡船から見上げる百日紅の上で正順が手を振っている気がしたろう。

 ひとのこころの振れ幅の大きさは夕霧楼のような場所で際立つに違いない。家族のためにそこに落ち着いてもこころの頑なさは容易に解けない。それが、一方で正順に再会できてやっと踏ん切りがつき、他方で身体を売りカネをむしり取る事にも躊躇がなくなる。
 その稼ぎで正順のこころを癒し、家族を支えてゆく。そうして生きる自信と覚悟も固まる。それは幸せなのだろうか?溺れる最中に藁を掴んだようなことに過ぎないのか?

 こんなことを抱懐していては京の商戦を生きてはゆけまい。そこを勝ち抜いた猛将が女の華たる夕子を買い、負け犬の正順を押しやるが、夕子の肺病病みと知れば将は顧みもせず、また正順は追い詰められて金を纏った国宝に火を放つ。国宝を毀損するのが国賊なら、国宝を食いものにする売僧もみやこの商将もまた罪を問われないのか?
 どもりで能無しな一個人、正順の宝である夕子が死病なら、国の宝の仏閣も同じ死ぬ目にあってみるがいい。それが最底辺のいちにん正順が放つべき国民主権の新時代にふさわしい個人の表明ではないか?

 親にも死んでいった夕子の胸中は知れまい。ただ、身体を売ってもこころは売らない気持ちの夕子の朋輩たちだけが夕子のこころの一端に察しを付けていたかもしれない。やがてこの商売も規制され「夕霧楼」は文学の霞みのかなたに溶けてゆく。
 いや、もともとそんなものなどないのだと立法府は言うだろう。労働者として管理され人権を保障され、誰も泣きを見ることのない社会を実現することが次の夕子も正順も生まない道であると説く。しかし、抜け道は常に模索され、それも次々立法で塞ぎその都度新しい夕子や正順が明らかにされ、その度に夕霧楼での事も回想されるだろう。それは国宝の、巧みの粋によるのとは異なるなんらかの美しさの思い出がためのことなのだ。
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