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村の婦人学級のニューランドのレビュー・感想・評価

村の婦人学級(1957年製作の映画)
3.7
✔『村の婦人学級』(3.7p) 及び『女たちの証言~労働運動のなかの先駆的女性たち~』(3.4p)▶️▶️

 羽田の会心の第一作目と、十年に亘る中断を経て完成させた苦渋の、キャリアが40年に届かんとする時期の作。
 昔観た事もある、有名な『~婦人学級』。今から観ると古典的というか、ヤラセ的な劇映画的な日常生活の実例を入れた、カット割りも古風な部分もある作である。しかし、当時観てる側もそれは感じてた筈で、忌憚なく婦人らだけで、論議·学習し、発見や学校の動きとのリンクに繋げ、また学校側やその他識者からの投げかけを受け止める、独立·触発へ動き出す、寺での「村の婦人学級」がかなりリアルな力と実際を持っていれば作品の力は失われない筈で、家の間取り·食事の時の台詞はともかく姑や夫の位置と威圧の妻への関係にも嘘はなく、会話内容もともかく、母の仕事の負担の大きさや忙しなく暇もなく·家の中の地位も弱者でリードは取れぬ·子育てや子とのコミュニケーションの不足·多くままならない様は、充分に観て取れる。本質を外れた事にかかりっきりの婦人たちは、社会の未来像へのビジョンとも閉ざされていて、自分らが子供らから置いていかれかねない存在である自覚もない。村の実態を客観的に撮るだけでは、母たちに目覚めの契機を与える事にはならなかったろう。ある程度作為的な、しかし社会を見つめアクションを起こす事はどうかという問いと姿勢を、映画製作の流れだけでなく、村の中に持ち込んだ事の、(作り方や主導のあり方に問題はあるにしても)意味合いはあったと観るべきで、それは真反対にみえても、小川プロの三里塚や牧野村への係わり方と、内実は似てたと見るべきか。ドキュメンタリーを装うフィクションに決して留まらず、物事が真に底から流れ出すかもわからない、起点らしきを目の当たりに出来る。
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 羽田澄子の活動は、岩波ホールが協力を惜しまなかった事で、幾らか観ていく事は出来たが、大掛かりなレトロスペクティブは近年フィルムセンターだったか、もうアーカイブと呼称していたが、判らないが纏めて行われてた気がする。しかし、収集や世界での自己の地位にしか関心のないような、かなり出鱈目現館長による、地下と二階で別作家とのバッティング·スケジュールで、途中で切り上げ、半端にしか観られない物も多かった。今日の2本目『~証言』。未完の、ポストプロダクションの手をつけられなかった素材の長い凍結期間を置いての、追加撮影を含めて一応纏め上げたという、この作品はその時上映されたか定かではないが、個人的には観るのは全く初だ。
 20世紀初めに生を受けた女性の人権·政治活動の代表者らの、(珍しい事自体が活動の燃焼の不完全を現してもいる)一堂に会しての座談会の企画と、その実現·撮影収めが一九八〇年代半ば。その企画に関与もした男性活動家も含め、存命の個人に追加撮影した、数年後·十年後のパートをくっつけ、作者の感慨や不足感もくわえての完成品。語る纏まり事に、字幕タイトルも入れ、極めてシンプルな作りだ。そもそも女性がピンとして活動家·党員を名乗り·認められ、表に出ること自体が稀で、ファッション·リーダーや女工としての出自はともかく、活動家の夫とセット·その部分としての活動が主だったという。そこには日本近代化の中心と歪みを担ったは女性労働者層、それへのスト等の改革運動のリーダーは全て男性という悪しき当然とされた慣習と根強い女性差別がはたらいていた。その中で彼女達も、革命を間近な物と捉え、女性解放運動よりも、社会改革革命家へ向う方のウェイトが大きく、後者が成し遂げられれば、前者は自然に達成されると捉えていたようだ。が、その自ら限界の引受けの認識はともかく、年齢や事件の経験を重ねても、屈折の度合いが少なく、互いへの隔てなさや前を向き過去を通過点として置き去らず·理想への姿勢を変えない姿は一方で活き活き感じる。海千山千となって怪物化してく男達とは別物なのは、単にメインストリームに立たなかった·風を矢面で受けなかったせいだけでもない、のも同時に感じられる。
 それだけに詰めのタイミングを逸した作者の痛恨も感じるのだが、それでも完成に向け匙を投げなかった、作者を突き放す事は出来ない。力不足の表明の入れ方自体が、補完·作品の現状以上のポテンシャルを感じさせる誠意であったには違いない。
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