すえ

PASSIONのすえのレビュー・感想・評価

PASSION(2008年製作の映画)
5.0
記録

いやー参った、これは凄い。

視線劇。視線の不一致、視線の衝突、視線の消失、視線の共有、視線の略奪。移り変わりゆく視線が台詞に先行する情報として成立する、物語を何よりも語るのは口ではなく目であるといえる。

上下左右の運動、円運動、図形的な運動、手前奥の運動、そういった種々の動きを散りばめていて、飽くことのない視覚的刺激に蕩ける。

内/外の断絶、その矛盾。内の自分は外の私を知ることは不可能であり、誰しもがその不可能性を抱えている。その内と外の断絶はどうしても認識しえないし、その断絶の深さもとうてい測りしえないものなのである。相反する自分自身を抱く我々が、どうして他人を理解出来るだろうか。そう、どうしても理解できないはずなのである。しかし、そんな矛盾の渦の中でも、他人を理解する瞬間が確かに存在する。
それは、あの長い長いショットの一瞬間に現れていると思う、視線の一致を超えた先にある“何か”があった。我々の存在を超えてふたりの人間がひとつになる、超人間的瞬間があったはずなのである。その“何か”には確かな言葉を当てられない、“何か”と表記するしか今の我々には許されていないのではないか。

映画は現実になれない。今作も現実では有り得ないし、映画においてのみ許されていることである。しかし、現実になれないが故に、我々の生きる現実を超える瞬間が確かにある、そのほとんど奇跡といえる超現実的な瞬間を撮ってしまう人がいる。その超現実は、人や風景を映す画面に、さらにはフレーム内だけではなくフレームの外においても宿りうるのではないか。超現実的瞬間の発現は、諸芸術において許されていて、その中でも映画は最も現実に接近しつつ現実を超えうるという特権を有しているのではないだろうか。

独白のシークェンスにおいて、被写体同士の距離が最も機能していた。部屋やその距離は境界を作り出し、その中で人間は侵入や離脱を繰り返す。踏み込み、踏み込まれ、他人をはたまた自分を知ろうとする。しかし、やがて浴室の扉というあまりに脆いが、どこまでも深い断絶に阻まれ、コミュニケーションは拒否される。浴室で交じり合うふたりは一見相互理解に至ったかのようであるが、それは表層的なものに過ぎず、ここでもコミュニケーションが破棄されている。言葉をキスで覆い隠し、不貞をシャワーで濯う不確かな関係。

あの長回しが撮れてしまったからこの映画を作ったと言われても不思議ではない。映画という媒体で奇跡を捉え、あまつさえそれを保存してしまう。私たちは『PASSION』をスクリーンに映す度々、奇跡を目の当たりにすることができる。あの時間、あの空気、あの空間。たったひとつのショットそのものに涙する。

それにしても、人間はめんどくさい!

2024,120本目(劇場39本目)5/8 第七藝術劇場
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