Tully

ファイト・クラブのTullyのネタバレレビュー・内容・結末

ファイト・クラブ(1999年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

この映画は哲学的で、自殺者や親族殺人など、自分を見失った現代社会へのメッセージが込められている。まずこの映画の主題は 「幸せとは何か」 だと思う。この事はタイラーと出会う前と後の主人公の状態で推察できる。タイラーと出会う前の主人公は、企業に勤め、自分の欲しい物を欲しいだけ手にし高級マンションに暮らし、何一つ不自由のない生活をしていたのにも関わらず、不眠症や夢遊病など悩みを抱え、幸せではなかった。それが、タイラーと出会いまるで正反対の環境に身を置いたが、反対に幸せそうに暮らし始める。この事から、幸せになるのには、物は必要ではないと言っている。タイラーも 「持っている物が自分を束縛する」 と言っています。欲すればすぐ物が手に入り不自由が減った我々の社会ですが、自殺者は後を絶たず、ある調査によると4人に1人が自殺を考えているという情勢がこれを裏付けます。欲を満たすことで得られる幸せは、一過性に過ぎないと言っています。また、タイラーと主人公の僕との関係性は、心理学で言う 「潜在意識」 と 「顕在意識) を表しているように感じます。顕在意識は 「こんなこと望んでいない」 と言います。しかしタイラーはそれを無視し悪事を加速していきます。幸せを望む我々は、起きている出来事や環境に対して 「もっと幸せになりたい」 や 「こんなことは望んでいない」 と言います。しかし我々の行っている行動や潜在的に望んでいることは 「不幸」 なのです。例えば、起きた出来事に対して我々は良くない出来事と評価を下し、その出来事が私を不幸にしたと考えます。しかし出来事には意味や価値はないのです。何故なら、その出来事を体験しても他の人は自分と全く同じ感想を抱かないからです。出来事に本当に意味や価値がついているのならば、全ての人々が同じ感想を抱かなければ嘘です。しかし、そうではないのだから、出来事に意味や価値をつけているのは、自分なのです。つまり、出来事が自分を傷つけたのではなく、出来事を傷つける受け止め方をしたのは自分であり、これはつまり、自分で自分を傷つけているのです。これを表しているのはラストシーンの防犯カメラの映像ですね。主人公は傍から見れば自分で自分を傷つけています。この映像を通じて、視聴者の誰もが 「そんなことやめればいいのに」 と思います。しかし主人公は 「自分以外の何かが自分を傷つけている」 という考えを捨てないので止められません。我々も起きた出来事を不幸だと認識したから、それに心が反応して不幸になっているだけなのです。幸せになりたければ 「そんなことやめればいい」 。出来事の受け止め方は自由である。最後、タイラーが消えたのは、痛みのせいですかね。痛みで脳が支配され潜在意識もクソもなくなったのでしょう。この事からも自分を不幸にするのは自分だと言っている気がします。脳は常に雑念が垂れ流しになっています。その雑念を消し、一つの事に集中する事で、大事なものが見えてきます。また、この映画のタイトルとなっている 「ファイト・クラブ」 ですが、してはいけない暴力に訴える事で登場人物達は幸せになっています。この事から、我々が思っていることや常識、価値観、していることとは反対に 「してはいけないと思っている事」 が実は自分を幸せにするヒントが隠されていると言ってるような気がします。主人公は、社会の言うように働き、物を買い、高級マンションに住み 「所謂幸せ」 みたいなものを手に入れたが、反対に不幸になっていきました。勿論他人に迷惑をかける事をするのは、他人を幸せに出来ませんので論外ですが。この事からこの映画が伝えてる事は、自分の欲を満たす事が幸せに繋がるのではなく寧ろ重荷になり、不幸になることは実は自分が選択していることで、幸せになるには 「そのカラクリ」 に気付いて価値観や物を捨てることだと言ってる気がします。ここまでの事を教えておきながら、「エンターテインメント」 としても成功しており、手腕のある監督だと思います。
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