荒野の狼

氷壁の荒野の狼のレビュー・感想・評価

氷壁(1958年製作の映画)
5.0
井上靖の原作小説刊行の翌年1958年に公開された映画。1955年のナイロンザイル切断事件の実話がもとになっている(真相は映画公開後、数年して決着)。小説を読んで、登山家が想いをよせる社長夫人・矢代美奈子(演・山本富士子)に見せたかったと語った前穂高の氷壁や、美しく描写されている梓川の風景が見たかったため映画を視聴した。
映画では、実際に該当する氷壁の接写や梓川ははっきりとみられないのであるが、遠景からの山の風景と実際に主人公の魚津恭太(演・菅原謙二)と小坂乙彦(演・川崎敬三)がスキーを履いて山小屋から登山に入るシーンを見ると、あたかも二人に穂高に連れて行ってもらった思いがする。登山シーンには十分時間がかけられ、登山家以外の視聴者にもわかるように、ザイルがどのように使われるのか、そしてまさに命綱であるのかが見せられ、転落シーン以外でも緊張感は高い。
小説のほうが描写は細かいはずなのであるが、映画で実際に、彼らと山を登る体験を共有してみると、登山の厳しさと、登山家のプロフェッショナリズムが感じられ、小坂の転落シーンには、魚津が持った登山家としての信念(小坂の「自殺」の可能性などあり得ない)と同様のものが感じられる。映画でも小説でも魚津は、なぜ「ザイルが切れた」のか信じてもらえないのか苦悩し、真実は、山と自分にしかわからないとしているが、映像の説得力の強さには驚く(映画では魚津の正しさを強調していないにも関わらず)。
山での捜索の様子や山男の唄に送られての遺体の火葬も映画ならではで(原作では描かれているものの)、登山の経験のないものにとっては新鮮。映画は長編小説の原作の重要な場面は漏らさず織り込んでいるためか、間(ま)がなく、小説の名場面を繋げている印象があるかもしれない。
小説を読んだものにとっては人物の心理などは既にわかっているので問題ないが、映画で本作にはじめて触れる人には展開の早さに追いつかない部分があるかもしれない。小説は数か月の事件を追ったものであるが、映画だと時間の流れは全く感じられず、小坂の妹のかおる(演・野添ひとみ)の魚津に対する恋愛感情などは、唐突に思えてしまうかもしれない(この部分も実話がもとになっており原作では納得できる展開)。
主演の菅原は男らしく好演で、社長夫人の山本富士子は当時26歳くらいとは思えない落ち着いた和服美人。小説では社長夫人の心の動きもキーになるのだが、駆け足の映画では十分な時間がとられないのが惜しい。ただ人並みにもまれて歩くラストの山本は感情がこめられ、物悲しく美しい。登山が未経験の人や、山岳映像になじみのない小説のファンには必見で、原作に強い印象を補てんする映画。
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