松井の天井直撃ホームラン

春との旅の松井の天井直撃ホームランのレビュー・感想・評価

春との旅(2009年製作の映画)
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↓のレビューは。今はもうなくなってしまった映画レビューサイトに、鑑賞直後に投稿したレビューを。こちらのサイトに移行する際に、以前のアカウントにて投稿したレビューになります。

☆☆☆★★★

「罪を償う事は出来ないの?」

映画のクライマックスで、それまで小さな胸を傷め続けていた春の口から、吐き出された言葉です。

人が生きて来た中で、1番価値の在る事とは、一体何だろう?

有名に成る事?
子供を沢山育てる事?
それとも次の世代に続く後継者を育てる事?

色々な形がある事でしょう。

まだ形として残る物を持つ人は良いとして、亡くなった人の人生での価値を量る物事の1つとして、どれだけ多くの人に囲まれて幸せに死んで行くか…。
それも、その人の価値を知る事の1つかも知れません。

しかし、その様な幸せそうに亡くなっていった人とは正反対の様に、どこかの道端で野垂れ死んで行く人も、少なからず存在します。
それどころか、誰にも知られずひっそりと…。
個人的にはそんな死に方はごめんこうむりたいものですが!

だがしかし、そんな野垂れ死んだ人生の最期だからと言って、悲観した人生だった…。
とも言えないところが、人間が生きて行く上で不思議なところ。

沢山の親戚縁者に囲まれて幸せに死んだとしても、列席した親戚関係の人の中には、「あ〜あ、早く死んでくれないかなぁ〜!」と、思わていたりや。周りの兄弟や親戚縁者の顔ぶれを眺めながら、自分の懐にはどれ位の相続が入るのか…。
そんな思いを持たれながら死に至る人だって居る事でしょう。

この作品で仲代達矢演じるおじいちゃんは、若い頃から好き勝手な振る舞いや言動から、血の通った肉親からも疎まれている人物でした。

もしも人間1人1人に生きて行く人生の中で、我が儘を言える回数が決められていたとしたら…。

果たして使い切った方が得なのかどうか?
その結果として、最後に道端で野垂れ死んで行ったとしたら、その人の人生は悲しい最期だったのか?は解らない。

ひょっとしたら、多くの人に囲まれた幸せな最後であっても、死ぬまで我が儘を言わなかった事は、人生に於いて得だったのかどうか?…それも解らない。
全ては、神のみぞ知るところでしょう。

お金だって我が儘と同じなのかも知れません。
沢山の貯蓄をしたとしても、「使い切れ無ければ単なる紙屑同然だ!」と言って、宵越しの金は持たないと決め込む人は少なからず存在します。
尤も子供が居るなら話は別です。自分のDNAを残す子供には、なるべくお金を残してやりたいと考える親は少なくありません。
また、子供が居なくても、ただただ貯蓄の金額が増える事を生きがいにしている人も存在します。

映画の途中で柄本明演じる弟が、兄をなじる場面が印象に残りました。
昔は羽振りが良かったのだが、バブルが弾けてしまい不動産業が傾いてしまった弟。
今は家と土地を売り払い、マンションの狭い一室に妻と2人で慎ましく暮らしている。
それでもまだ不動産王になるべく、夢は捨ててはいない。
今はこんな暮らしでも、新聞は隅から隅まで読んで日本経済の行く末を予想し、「将来に備えているんだ!」と、うそぶく。
おそらく自分でも、それがどれほどの夢物語なのかを知っている筈なのだが…。
彼もまた子供が居なかったばっかりに、宵越しの金は持たない主義だったのかどうか…。
どうやらバブル期の勝負に負けてしまった1人の様です。

そんな彼も「今更どの面下げて…」と言いつつも、最後はお金が余っている訳では無いのに…。その性根の優しさに惚れている妻役の美保純は、春にはっきりと苦しい内情を語ります。
彼もまた、ニシンで失敗した兄と同じ兄弟の血筋を引いている人物だったのです。

振り返って考えると、最初に訪れた大滝秀治と、菅井きん演じる長男夫婦。
長男は次男をなじり倒した挙げ句の果てに、子供達の意見には逆らえない…との本音を漏らす。
おそらくは、将来を子供達に養って貰わなければならない立場に居る弱さを、滲ませているのだと思わせます。
この長男も、次男との話振りを見れば解る通りに、若い頃には自分勝手な生き方をして来たのだろう事は容易に想像出来ました。
血は争えないものだと感じます。

その様にこの映画の内容は、徳永えり演じる孫娘と共に、家族を頼って生きて行かなければならない事を悟ったおじいちゃんと孫娘のロードムービーです。どこか今後益々増え続けるであろう高齢化社会の縮図を見る思いでした。
実は観ている間に、或る1つの日本映画の名作を思い出しながら観ていました。

小津安二郎監督の名作『東京物語』。

血の通った兄弟よりも、血の通っていなかった義理の人物の方が…。
この作品でも最後には、『東京物語』での原節子にあたる人物として、戸田菜穂演じる女性が登場します。
かねてよりフランソワ・トリュフォー等のファンで在る事を公言している小林政広監督だけに。そんなヌーベルヴァーグの映画作家達が、過去の作品にオマージュを捧げた作品作りを、おそらく意識しながらの脚本作りだったのではないでしょうか。

彼女は何故、何の義理も無いお爺さんに対してあんな提案をしたのでしょう?
単に監督自らが書いた脚本上で、『東京物語』へのオマージュとしてだったのでしょうか?
それとも内情を聞いていた事から、再婚した相手を悪く思わないで欲しいと願っての事からだったのでしょうか?
一応セリフでは、父親を知らずに育った過去が有り、再婚相手から聞いた人物像に、これまでの人生で見た事の無い人物では在っても、父親の様なイメージを勝手に抱いていた感じでは有りました。

でも、ひょっとしたら再婚相手と同じ匂いを感じたのかも知れません。

牧場を捨て漁師の娘のもとに行った次期のある再婚相手。
多分出逢った当初は魚の匂いがしていたかも知れません。
そう言えば旅館で春がおじいちゃんに「お風呂は毎日入るんじゃなかったの?」と聞いていました。
「入らない…」と答えたおじいちゃんの一言。、
この言葉で、観客はこの旅に対するおじいちゃんの決意の強さを知る事になります。
訪ね歩く兄弟の家の先々で、窓を開け空気を入れ換えようとしていたのは、その習慣が残っていたからなのかも知れません。

少し匂いの方に脱線しました。

もう1つオマージュに関して言えば、淡島千景演じる姉を訪ねて行く場面で画面構成が不思議なシーンが有りました。
会話が会話として成立していないのです。
映画を観た人全てが、一瞬「あれ?」と思う筈です。
まるでゴダールの『男性・女性』を思い浮かばせるシーンでした。
案外と単純に、出演者達のスケジュール調整が上手く行かずによる苦肉の策による演出だったのかも知れないのですが。
『東京物語』には小津安二郎独特の辛辣な目線が入って入ると思えるのですが、この作品では長男に四男。そして最後に登場する、小林作品での常連俳優香川照之の描かれ方を見ると、小津安二郎の辛辣さに比べてかなり家族の血縁の深さを感じ取る事が出来ました。

突き放す様に見えても、最後には兄弟としての優しさが感じられるのです。
寧ろ1番受け入れ易そうで、常識人的な人物として描かれている姉の淡島が、春に対して仲代を「突き放さなければ駄目よ…」と諭す。
一見すると1番優しい口調ながらも、次男を受け入れる話に対しても「それだけは絶対に駄目!」と言い放つ。
そこはやはり姉と弟の関係で在りながらも、やはり男女の考え方の違いを観て居ながら意識してしまう。

またこの作品では、今までの小林作品同様に、映画全編でワンシーンワンカットが使われていました。

仲代達矢は脚が悪いとゆう設定の為に、終始右足だろうか?絶えず引き摺りながら歩いている。
逆に孫娘役の徳永えりは、絶えずおじいちゃんから「あれしろ!これしろ!」と言われ続けて来たからでしょうか。それまでの人生で絶えず、ちょこまかちょこまかと動き続けて来た事を想像させます。
腕を左右に翼の様に広げ、がに股でちょこちょことペンギンが飛び跳ねている様に、走る場面が多い女の子です。如何にも田舎育ちの女の子らしい仕草でした。

この作品の中で、この2人は一体どれだけの食事を取ったのだろう。うどんを蕎麦を。コンビニのお弁当を、
食堂を経営する田中裕子演じる三男の内縁の妻との触れ合いでは、結んで貰うおむすびを…と。
人間は食べなければ死んでしまう。
食べよう!と言う意識がまだ有る内は、このおじいちゃんに春はまだまだ一緒になって人生を歩いて行かなければならない様です。

最初に記した言葉は、春が長年思っていた気持ちです。
映画の中には登場しなかった人物を想いやっての一言でした。
言いたくて言いたくて溜まらなかった言葉を、やっとの事で振り絞り伝えた春。
その言葉を只黙って聞いていた人物。
その場には居合わせては居ないものの、春の心中を察してか、昔を懐かしむ様に2人で食事を取りながら、「実はな…」と語りかけるおじいちゃん。
ここで終われば、かなり余韻を残す映画の締め方でしたが、映画は更にエピソードが有りました。

その意味は、作品を観た人それぞれがどう感じたかによって解釈が色々と変わると思います。
色々な意味で考えさせられる作品でした。

多少音楽が過剰になる箇所も有りましたが、今回は今までの小林作品の様に、監督自らの歌が無理矢理入る事が無かったのは、良かったと思います(笑)

(2010年6月2日丸の内TOEI 2)