レインウォッチャー

それからのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

それから(1985年製作の映画)
4.0
森田芳光meets夏目漱石、feat.松田優作。
この座組からは、順当なような意外なような、はてどう転ぶか?という第一印象を受けたけれど、蓋を開ければ原作からの換骨奪胎ぶり・リミックスぶりがみごとな一本だと思った。

基本的には原作をなぞりながらも、二時間映画の枠の中で、記憶に残る台詞群からどれを残すかのチョイスもそうだし、何より各キャラクターにどう光を当てるかの解釈によって、メロドラマとしてより分かりやすくなっている。

主人公の代助(松田優作)は当時の言葉で高等遊民、つまりは貴族的ニート。なにせ「働いたら負けだと思っている」の直系祖先とも思える台詞があったりするのだ。このへん、明治でも変わらないのですね。

原作は、あくまでもそんな彼からのビューを中心として、彼の幾分頭でっかちな思考(現実的な物事をあれこれ理屈をつけて先延ばしにしたり、自身の立場や行いを捏ねくり回しては正当化したり卑下してみたり)の推移をクールに観察して記述するようなスタイルで進む。

もちろん映画でこれを直接再現するのは向かないし、何より現代的な感覚からすると「うるせー働け」に集約されがちだろう。なので、そのぶん演技と映像で勝負をする。
松田優作の朴訥とした、しかし確実に浮世離れした佇まいに言外の心理を託しつつ、色気たっぷりの夢想的なカット(※1)を要所にスパンスパンと切れ味よく入れて、彼の寄る辺のなさに輪郭を与えていく。故になのか、映画の彼からは嫌味をあまり感じない。

物語は要するに略奪愛、あるいはプラトニックNTRみたいなもの。原作ではおそらく時代的な感覚のギャップから多少分かりづらかった、「なぜ成立するか」にも補助線が引かれているように思う。

代表的なのが平岡(小林薫)で、映画ではよりうらぶれた、高圧的な人物像に描かれている。
周到なのは、単にヴィラン化させるわけではなくて、彼の挫折や迷いを短い時間の中でも的確に描くことで(平岡と三千代だけの家庭内の様子は原作にはない描写)、説得力を与えていることだ。

他にも、代助の兄(中村嘉葎雄)はより脂っぽい陽気でどこかコミカルだし(バナナ頬張ったりとか映画オリジナル)、父(笠智衆)からは単なる正論に基づく厳格さを超えた清澄な正しさを感じたりと、好みはあるかもしれないけれど様々なチューニングで押し引きされている。

そんな中で浮き立つ、三千代(藤谷美和子)との濃密な時間。
上で《プラトニック》とは書いたものの、そのぶんよりタチが悪いというか、精神的な交感が描きこまれている(※2)。百合の花と水。花瓶の水でも(あなたのなら)飲んでいいわ、っていう、っていうね…ね。

ただの文芸ロマンに終わらない、作家対作家の名綱引きが見られる作品ではなかろうか。惜しむらくは、森田監督版『門』なんかも観てみたかったな、ということ。

------

※1:これらの描写の数々からは、松田優作×文芸という要素も相まって、鈴木清順の『陽炎座』を思い出しもするところ。
一方で、原作小説にあった「あまりに映像的な」箇所はあえて再現を避けられていたりするのが面白い。

たとえば、三千代と初めて明らかに互いへの想いを確認し、彼女が帰った後、彼が月光の降る庭で百合の花を撒き散らす場面。
あるいは、最終行に向かうまでの、視界の中のあらゆる「赤いもの」が目立って思考を支配していく場面。

これらはいずれも暗喩と色彩に満ち、素人目にはいかにも「オイシそう」に見えるけれど(特に後者なんて監督お得意の《赤》使いが映えそうな)、映画ではさらっとかわしているように思う。イメージとして既に完成され過ぎているためだろうか。代わりに別のアプローチでの表現が其処此処に差し込まれていて、作り手の構えが見えるよう。

※2:代助にしても平岡にしても、芸者遊び(要するに風俗)はしてるんだっていう描写が三千代の聖化を後押ししている。すごい勝手な期待というか、押し付けでもあるけれど。