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沈黙の春を生きてのKengoTerazonoのレビュー・感想・評価

沈黙の春を生きて(2011年製作の映画)
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ベトナムの地へ赴くアメリカ人が偉そうだと感じた。どこかベトナムの障害を持った方々に対する優越意識があるように思える。アメリカ人がそのことに対して無自覚であるのは当たり前なのだが、坂田さんがそのことに対して無自覚であるようにも感じた。偶然フィルムから義足のアメリカ人女性が抱いている優越意識がこぼれ落ちているだけで、映画の視点は一貫してアメリカ人女性側にある。キャメラの位置も、目線の低いベトナム人障害者に合わせたショットがほとんどないようにも感じた。全部上から見下ろす形、アメリカ人の視点で撮られていることも示唆的であるように思えた。同じ被害者であってもベトナム人被害者とアメリカ人被害者を同列で語っていることにも違和感を感じた。「みんな同じ被害者である」という視点は確かに一つの考え方なのかもしれないが、問題はそんなに単純なことなのかという疑問も抱いた。確かにアメリカ人の中にも枯葉剤による被害者が大勢いるかもしれないが、枯葉剤を撒いたのはアメリカであり、被害者である兵士はベトナム人からすると加害者でもある。その視点が欠如しているため、観ているときに心が両義性に苛まれることがない。両義性に苛まれ、善悪の価値判断が停止する感覚が面白いドキュメンタリーだと私は考えるので、どこか物足りない感じがした。
客体はキャメラに対して常にアピールする。歌を歌う盲目の少女もアピールしていたように感じるし、義足のアメリカ人もアピールしていたと思う。キャメラの前で客体が演技をすることは普通だと思う。むしろ、製作者がその演技に対して自覚し、そこから距離を置くか、もしくはそれを利用して、彼らの演技の裏側にある目論みを露呈させなければいけないと思う。坂田さんの場合は、アメリカ人の被害者家族たちが自分の都合のいいように演技してくれたから、それに飲まれてしまったように思う。その演技をあたかも本当の姿かのように見せている感じがして、批判的でないように感じた。そうなるのは、坂田さん自身の自分の夫に対する思いがあると思う。自分の夫が苦しんだ理由を知りたくてドキュメンタリーを製作したから、そのような視点になったのだと思うが、そうなのだとすれば、坂田さんも撮られる客体、批判される対象になるのではないだろうか。自分の視点であることを、映画の中で露呈せず、あたかも客観的なふりをしたから、逆に批判的なドキュメンタリーにならなかったのではないかと感じた。
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