Ryo

ぼくはうみがみたくなりましたのRyoのレビュー・感想・評価

4.7
映画「ぼくはうみがみたくなりました」を観ました。自閉症の主人公とその周囲のひとたちの関わりを、それも1~2日程度の時間を描いた作品です。この限られた時間の中で、白血病で恋人を失っていたヒロインが、「自閉症」に関する認識の誤りを認め、変わっていく、そして喪失を埋めていく物語です。


 主人公とヒロインは、ひょんなことから出会い、旅に出ます。その道程で主人公が昔通っていた保育園の園長と行動を共にします。そして、旅館に泊まります。じつはその園長は胃癌の手術直後で意識的か無意識的かは分かりませんが、死を覚悟して旅に来ていました。彼は、園長時代に、面接にきた自閉症の一人のこどもの入園を断わっていました。しかし、その後に勉強して、受け入れられる準備をしていた中で現れたのが、この映画の主人公です。大きくなった主人公と旅館に泊まった日に、園長は、急患で病院に搬送されます。
 主人公とヒロインは大急ぎで病院に向かいます。そこで、主人公は園長を病院のそとに誘い出します。そして、海に向かった一行は―

(1)自閉症と社会

 こういったお話です。ネタバレをしすぎないよう、いろいろカットしていますが、大枠こんな感じです。この映画の物語は、どのようなメッセージを携えているのでしょうか。私は、以下のように理解しました。

(2)社会による認知

 まずは、「社会による認知」についてです。自閉症の発作を起こしている主人公に対して一般の人が向ける視線は異物を見るようなものでした。そして、主人公がこどもに対して声をかけた時、その子の親が向ける視線も厳しいものでした。ヒロインですら、「不思議」そうに見ていたのです。
 自閉症のひとびとは、まず無理解という社会構造の中に生きていることが告発されています。いまでこそ、状態は多少変わってきているかもしれませんが、依然として「自閉症」などに関する社会的な認知と理解は不十分ではないことは紛うことのない事実です。

(3)前景化しない存在

 では、なぜ、そのように無理解が温存されつづけているのでしょうか。その理由は単純です。一定の割合で存在している自閉症の人を、わたしたちが意識的または無意識的に見落としているからです。自閉症には、程度の差があり、軽いものから重いものまで様々あります。そして、それを抱えながら自閉症のひとびとは普通に生きています。わたしたちと同じ町(街)に暮らしています。
厚生労働省によれば、自閉症の発生頻度は100人に一人です。ほかにも、2018年のアメリカのデータによれば、44人に一人に及んでいると言われています。自閉症の人は、見たことがないと言うには発生の頻度が高いでしょう。しかし、わたしたちは(もちろん、わたしも含めてです)彼らを目にしているにも関わらず、ほとんど何も知らないのです。これは考えてみればおかしいことではないでしょうか。小学校を思い返してみれば、わたしの行った公立小学校には、一般級の中に自閉症の児童がいました。その小学校は特別級も併設されているところでしたので、そちらにもいたんだろうと思います(正確には分かりません)。
 なにを言いたいかと言えば、彼ら/彼女らは、そこにいたにも関わらずいなかったのです。自分たちとは違う人たちを、認知の外に置こうとすることは決してめずらしいことではありません。自戒的に申し上げれば、わたしはそういう人たちを、いわば無意識的にネグレクトしてきたのです。前景化を忌避してきたのです。

(4)いのちの唯一性

 そのように存在を無視され、しかしある時には厳しい眼差しを向けられる彼ら/彼女らは、関わりのもたない人にとってはなんでもありません(前景化していないから)。しかし、唐突に旅に出てしまった主人公に対して、弟が「いないと変な気分になるんだよ」とこぼします。つまり、わたしが前景化させなかった彼らは、誰かにとっては愛着のある価値あるひとりの人間なのです。

 たとえば、100軒隣の家のひとのことをわたしは知りません。道ですれ違っても、気づかないでしょうし、気もち悪いとも思わないでしょうし、というか何も思わないでしょう。しかし、ある種の障害を持つ人たちにわたしたちが抱きうる感情を想起してみてください。ネガティブな感情ではないでしょうか?

 お気づきいただけたかと思いますが、わたしたちはいずれも知らないのです。存在として認知していないのです。ところが、ある種の障害を持つ人たちに対しては、ネガティブな感情をもつでしょう。そのネガティブな感情は、「知らない」ことによって生じているのではなく、「わたしたちと違う」と知っている or わかることに基礎づけられています。

(5)社会の中にあるということ

 さて、このように考えてくるとわたしはひとつのことに気づきます。それは、自閉症のひとびとが閉じているのではなく、それ以外の人びとが彼ら/彼女らに閉じているのではないかということです。考えてみれば―あくまでわたしだけかもしれませんが―わたしに対して閉じているひとにわたし自身をひらくことはありません。

 病院から出ようと提案する主人公に対して園長は応じます。普通に考えたら、断わります。なぜでしょう。不思議です。じつは、直前にヒロインの運転で病院に向かう際に、制限時速を超えて走ろうとしたら急停車させるシーンがあります。自動車が普通道路を走行する際の制限速度は60km/hですと主人公がヒロインを止めるシーンがあります。これを思い出したときに、ハッと膝を叩きました。

 主人公は、この物語の中で、正しいものばかり提示してきています。正しいものだけと言っても過たないかもしれません。だからこそ、園長はその誘いに応じたのです。主人公たちが、そこからどこに向かったのかについては、ぜひ映画をご覧ください。
Ryo

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