Jeffrey

コルチャック先生のJeffreyのレビュー・感想・評価

コルチャック先生(1990年製作の映画)
5.0
「コルチャック先生」

〜最初に一言、89年よりポーランド上院議員に就任したワイダが政治家として多忙を極めた頃と重なり、持てる才能と技能のすべてを本作につぎ込んだと言っている、並外れた人間を描いた、正に傑作である。私は90年に公開された作品で傑作が2本あると兼ねてから言っている。それがカネフスキーの「動くな、死ね、甦れ」と「コルチャック先生」である。そして忘れることができない2011年3月11日に発生した東日本大震災に際しては、日本の被災者に励ましのメッセージをいち早く送ってくれた監督と言うこと、大の親日家であると言う事…〜

冒頭、ここは放送局。一人の老博士の話が始まる。彼はナチの新兵隊から孤児を助ける。ゲットーへの移動、地獄からの解放、食料調達、新しい仲間、ユダヤ自治会、母の死、タゴールの劇、抵抗組織、今、子供達とともに列車に乗る…本作は20世紀が生んだ偉大な人道主義者の半生を、深い敬意とともにアンジェイ・ワイダ監督が描いた90年代の傑作で、私はかねてから90年に制作された作品で、ヴィターリー・カネフスキーの「動くな、死ね、甦れ」と同時に、この作品を当時の傑作に選んでいる。全編に満ち溢れるプショニャクの名演が素晴らしく、ヤヌシュ・コルチャックの筆名を用いて活動したユダヤ系ポーランド人教育者、幼児文学者、小児科医師ヘンリク・ゴルトシュミットの半生に基づき、女性が監督アグニェシカ・ホランドがオリジナル脚本を務めた傑作である。この度BDにて再鑑賞(人生3度目)したが最高である。因みにホランドの作品で同じく90年に公開された「僕を愛したふたつの国/ヨーロッパ ヨーロッパ」は傑作で、日本ではVHSのみしかなく円盤化されていないが、クライテリオン版BDが発売されているので、気になる方是非ともお勧めする。

今思えば、1989年(日本では平成元年になった年である)にポーランド上院議員に就任したワイダにとって、本作の撮影時期は政治家として多忙を極め始めた頃と重なっている。私個人勝手ながら1991年生まれの為、彼が同職を務めた91年であること、彼の没年月日が10月9日(私の誕生日)と言うことで、勝手ながらに好きになっているのだが、それ以上に親日家であることに大感激しているところである。私の誕生日はジョン・レノン0やチェ・ゲバラなども一緒である(どうでもいい情報)。本作は90年の第43回カンヌ映画祭で上映された際、観客は一斉に立ち上がって万雷の拍手で賞賛の念を表明しているが、史実に反する幻想的な終幕は絶滅収容所のガス室の存在を否定しているとの見解も生んだが、そのような解釈がワイダとホラントの本意でない事は明白に見て取れたとの事だ。

コルチャックと言う人物は、ポーランドの伝説の人物として世界にその名を残した人で、生涯にわたって子供たちに捧げ、その仕事を本業の医師とは別に、本まで執筆していた。当時まだ国民に関心が薄かった教育問題を、ラジオで論じる人気パーソナリティーとなっており、広い分野で子供たちの問題を提起していたことが思い返される。アンジェイ・ワイダは、この作品の映画化を20余年に及ぶ構想の後に実現させた。当時彼にとって本作の制作と後に21世紀になって彼が監督した傑作の1つ「カティンの森」の真相の映像化が、ワイダ監督の生涯の課題だったと言う。連帯が勝利してまた破れて非合法となり、ようやく完全に確立された1989年こそ、そのチャンスだったそうだ。監督は、「カティンの森」の演出を信頼する女監督に任せて(ワイダ監督は監修として名を連ねた)「コルチャック先生」に全力を通したそうだ。

ポーランドの長い歴史が、時間の猶予を与えないことを知っていたからなんだろう。この2つのテーマは、ポーランド人の誰もが知っており、すべてのポーランド人にとって、癒し難い傷であったそうだ。そして、決して触れてはならないタブーでもあった。ワイダ監督のもとに、かつての彼の製作集団Xのメンバーが集まってきて、素晴らしい脚本を書き上げたホランドは、ワイダ作品の助手として、「大理石の男」(77)や「鉄の男」(81)の制作に携わってきたが、現在では女性監督としてその名を知らされている。妹のマグダレナ・ワザルキェヴィッチも監督デビュー、姉妹揃っての活動が注目されていたのもこの当時だったと記憶している。プショニャクは、ワイダ作品には欠かすことのできない俳優であり、「ダントン」(82)でのロベスピエールの名演は誰の記憶にも残っていただろう。

「約束の土地」(75)でも、ユダヤ人青年を好演していたし。本作では、撮影後も役柄から抜け出せないほど没頭をしていたと言う話がある。撮影のロビー・ミューラーは、ヴィム・ヴェンダース作品で高い評価を得ているカメラマンである事はご存知だろう。見事なモノクロ撮影で、ゲットーの残酷さを克明に捉えていて素晴らしかった。一方子供たちとコルチャック先生の強い絆を、詩的に表現したのも拍手喝采ものだ。音楽のヴォイチェフ・キラールは60年代初めから映画、テレビの音楽を手がけており、ワイダ作品はこれで4度目の共同作品になっていたと記憶している。連帯結成時に作曲したオラトリオがよく知られているが、今回はワイダ監督との話し合いで、映画の終幕のために、その第二章を作曲したらしい。これはガス室へ送られるユダヤの子供たちに捧げた葬送行進曲であると語っていた。さて長い前フリはこの辺にして、物語を説明したいと思う。


本作は冒頭に、ピアノ曲が流れ、スタッフ、マイクの前で原稿読んでいるコルチャックの姿が写し出される。ここは放送局である。彼が話をする。放送を終え、録音技師に合図をするコルチャック。ここは事務所…さて、物語はヤヌシュ・コルチャックは、ユダヤ人一家の出身だったが、ポーランド人社会の中で多忙な毎日を送っていた。小児科医として、作家として、そして孤児院の院長として、だが1936年、彼が老博士の名で出演していた人気ラジオ番組が、突然打ち切られた。ユダヤ人迫害は、すでに電波にまで及んでいたのである。そんな中でも、コルチャックと子供たちの楽しい日々が続いた。子供たちの川遊びを見守りながら、教育学専門学校の学生たちと自由に討論する充実したひとときもあったし、子供たちの間には、小さな恋も芽生えていた。しかし、ナチスの迫害は日に日に激しさを増していた。1940年、ユダヤ人はゲットー(特別居住区)に移り住むことになる。孤児院の子供達も、ゲットーの中の古い校舎へと移動していた。それを見送る人々の中に、マリーナがいた。

マリーナは、自分の死んだ子によく似た幼い少女を見つけ、孤児院の女教師ステファに頼んでこっそりその子を引き取った。この日に備えて集めた子供たちの食料が募集された。抗議に行ったコルチャックは、ユダヤ人を表す腕章をつけていなかったことから、咎められ、拘留される。だが、その後も彼が腕章をつける事は決してなかった。ある日、コルチャックはユダヤ警察に捕えられた少年シロマを助けた。シロマは共同住宅に住む病身の母に何か食べさせたいと命がけでゲットーを抜け出していたのだ。彼の母親は、息子を危険から守るため、コルチャックの孤児院に入れてくれるように頼む。子供たちの食料を確保するために、コルチャックは、ゲットー内の金持ちや慈善家の住いを訪問する。また一方で、確実に近づきつつある死と言うものを理解させるために、コルチャックは子供たちに芝居をさせた。

選ばれたのはタゴールの戯曲"郵便局"であった。その日も、ようやく手に入れた食料を持って孤児院に帰る途中、コルチャックは知り合いの成金の男に出会った。彼の紹介でコルチャックは、居酒屋に集まる密輸業者たちから献金をしてもらう。子供たちの命が彼には何よりも大切だった。自分の誇りも名誉も、もはや不必要だった。ユダヤ人の強制収容所送りが始まっていた。コルチャックの身にも危険が迫っていた。友達の援助で、彼は国外逃亡することもできたが、彼は自分1人が助かることを拒んだ。その日、ナチの新兵隊は、コルチャックの孤児200名をーカ所に集めた。ステファは兼ねてから用意しておいたー番良い服を子供たちに着せた。ユダヤ人の印"ダビデの星"の旗を高く掲げ、子供たちの先頭に立って、コルチャックはトレブリンカ収容所への汽車に乗った。子供たちが彼を最も必要とするとき、そばにいてやること、子供たちの恐怖を和らげ、彼らの尊厳を守ってやることが、コルチャックに残されたただ一つの願いだった。彼は、子供たちと一緒に死を迎えた…とがっつり説明するとこんな感じで、1930年代末から40年代にかけての地獄のような季節を見事に再現した三ミューラー撮影のモノクロ画面が、第二次大戦を現代に蘇らせるかのような画作りで圧倒される1本だ。



いゃ〜、子供たちの素晴らしい演技が光っている。当時ポーランドでものすごい人気がある子役を使っていると思われるのだが、そのナイーブな演技力できっと監督を感嘆させたんだろうなと思う。この作品は多くの人々の心に長く残るような映画である事は間違いない。冒頭の下りの水遊び(川遊び)のシーン風趣で遠望な美しさったら息を呑むほどだ。そのわずかなシーンだけで叙情的な美しさが満ちあふれていた。なんといったって、この作品に出てくる子供たちみんなの表情がすごく健気で可愛らしく印象的である。コルチャック先生が雷と雨を操った瞬間に先生は魔法使いみたいだと言う少年のクローズアップや、その後に洋服を頭からかぶって恥ずかしそうに先生に手を引っ張られ階段を上ってくる小さな少女の瞳、それから演劇会での少年たちの眼差し、いざこざまでも全てがいとおしく愛くるしいのだ。そして先生がじゃがいもを盗んだ少年をドイツ兵が暴力を振っているのに鉢合わせて、恥ずかしくないのかと言う場面はすごくすっきりする。その後高さ20メートルはあると思われる聳え立つ石壁を見上げるコルチャック先生の本の数秒のワン・ショットはタルコフスキーの神秘的な映画をモノクロで見ているかのようだ。その壁で全く洗剤が入っていないのか、吹いてもシャボン玉が出なよシャボン玉を吹いている少年のショットも印象的。

この映画のほほんと最初に見ると、いきなりユダヤ人が迫害されていると言うことがはっきり画面から伝わってくる。突如番組が中止になると言う話が入ってきて、コルチャック先生が動揺するのである。この点から、ポーランドにおけるユダヤ人迫害の動向が凄まじい勢いで伝えられる。しかも、ラジオで敢えて自らの名前を出さずに、老紳士と名乗っていたのは、ユダヤ人であることをあからさまにしない為だと言うことがまず考えられる。この冒頭のラジオの部屋の中だけで、ユダヤ人がヨーロッパで生きていくことの歴史的な困難が如実に現れているのだ。これはたったこの空間の数分間だけで観客の細胞一つ一つに伝えてくるような演出はお見事である。そして完璧にコルチャックを演じたポーランドの役者プショニャクには、脱帽するしかない。世界に誇れる、まさにオスカー俳優とはこの事を言うと言いたいほどに、彼の名演技は脳裏に焼きついた。あの丸眼鏡から時折見せる優しい眼差しが安心感を与えてくれていた。実際の人物も子供たちにあー言う眼差しを送っていたのだろうか、だとしたら子供たちは非常に安心していただろうと思う。実に優しい人柄を見事に憑依していた。

ワイダと言う作家の作品には、ある一定の表現方法というか手法がある。それは喜びからの絶望、もしくは悲劇である。本作では年頃の男の子と女の子の思春期の恋を描きつつ、川遊びをしている風光明媚なシーンではなんとも幸せ、幸福なひとときを描いていた。しかしながらそれは後に来る悲劇を暗示するものであり、観客に予感させたのだ。そういった表現方法もしくは演出方法は極めて古風であるが、物凄い効果的であることもまた事実だ。そしてその感情を敏感に察知してしまう、少年とユダヤ人少女の悲しげな表情のクローズアップや三角関係等をサブストーリーに持ってくる点も面白い。メインストーリーがコルチャック先生の物語だとしたら、子供たちのストーリーはこの辛い時代の唯一の救いであるかのように観客に与えられたワイダのサービス精神だろう。それはクライマックスのトレブリンカ行きの列車から〇〇していく帰結で最高潮に増すのだ。

それにしてもコルチャックと言う人物は非常に頑固だなと言うことがわかる。命の危険をさらしてまでダビデの腕章をつけることを拒否するのだから。どこかしら抵抗しているかのようにも見えるが、決してそのような思惑は無いのだろう。ユダヤ人としてのプライドがあったのかもしれない。監督は彼を偶像化しないように気をつけているのか、彼の怒る場面を結構付け加えている。そこら辺は聖人的ではなくまさに血の通った人間的な面として写し出されていると思う。人間と言うのは、このような悪辣な時代環境に生きていれば必ず短気になるものだ。ここで短気な性格を出さなければ映画的に終わってしまうし偶像化するだけだ。先ほども述べたが、この作品のクライマックスは幻想的な美しいシーンで締めくくられている。それを詳しく言うとネタバレになるため言わないが、あの強制収容所に向かってひた走る強制移送列車が通る野原で停車して、貨物車の扉が開いてダビデの星の大きな旗を先頭に明るく幸福そうな表情の少年少女たちが野原に駆け下りるあのシーンは映画史上に残る最も印象的な場面の1つと言っていいだろう。

自分だけが助かる道もあったにもかかわらず、意欲的で若いユダヤ人(金持ち)がドイツ軍に顔を聞かせて、なんとかコルチャックだけを移送から外そうとするが、それは彼の頑固な態度で拒否し無駄になる。この列車の場面はポランスキー監督の「戦場のピアニスト」のワンシーンを彷仏とさせた。やはり監督は先生と200人の孤児に対して、心からの追悼をこのファンタジーのような締めくくりで捧げたんだなと思う。しかし、当時これはカンヌ国際映画祭で上映され、絶賛された翌朝に自体は一変する。フランスの日刊紙であるル・モンドが私を反ユダヤ主義者呼ばわりした。そして主要な配給会社の中で、ポーランド国外でコルチャック先生を流通させようとするところは1つもなくなってしまった。我が誠意は無に返したのだ…とワイダが言った事だ。そういえば、ワイダの作品の中で超絶に好きな映画「戦いのあとの風景」というのがあるのだが、その映画のミナ役を演じた女優が本作の食料品店の女主人役で出演していて嬉しかった。

そして話を戻すが、当時この作品を見た女性映画評論家のエルマンと言う人がル・モンド紙に寄せた本作に対する批判が非常にワイダの大ファンである私にとっては胸くそ悪いのである。彼女は、クライマックスのスローモーションで表される列車から飛び出してくる子供たちの様子が、カルパントラ(フランス南部の都市)のユダヤ人墓地を冒涜していると言うのだ。どうやら、この批判が発表される3日前に、同地のユダヤ人墓地が荒らされているのが2人の女性に発見された事件を表しているようだが、同じくホロコーストを主題とした大作記録映画「ショア」(85)で知られる映画監督クロード・ランズマンも、ポーランド人たちが犯罪に加担した事実を隠蔽するために、コルチャック先生はユダヤ大虐殺の歴史的事実を偽ったのだと激しく攻撃した。彼らは本作が反ユダヤ的である上に、絶滅収容所のガス室の存在を否定していると受け取っていたらしく、監督も脚本家もその場面がそのように受け取られる事は考えもしなかったようだ。無論私もそう思う。いつの世にもこのような優れた作品に対して批判をあげたい奴らがいる。まさにその一例だろう。

ワイダ自身は、史実通りコルチャックと子供たちがトレブリンカの絶滅収容所(のガス室)へ送り込まれる様子を描写することに嫌悪を抱いていたそうだ。彼が言うには、そんな場面を作る勇気は私にはなかったし、スクリーン上で見たいと思わなかった。コルチャックがどうやって亡くなったかは誰もが知っていることだと思ったし、その事実は明白だと言う。完成作は、先に引用したエイマンの記述通り、列車から飛び降りたコルチャックと子供たちが野原を駆け抜けて行き、彼らが陽光の中に飲み込まれたように画面が真っ白になる幻想的な映像が表された、コルチャックは1942年8月、子供たちと一緒にトレブリンカのガス室で亡くなったと史実を明記したタイトルが出て幕となる。この場面はある意味、コルチャックによって子供たちが死(がもたらす生きる苦難からの解放へと安らかに導かれる様子を象徴しているようにも見える…とプレスシートに載っていた。

話はまだ続いて、フランスの批判者たちに対して本作を強力に擁護した人物に、ワルシャワゲットー蜂起(1943年4月19日に起こった、ワルシャワゲットーのユダヤ人レジスタンスによるナチに対する武装蜂起)の指導者の1人だったユダヤ系ポーランド人マレク・エデルマン(1922年から2009年)がいたそうだ。このような事柄があったためか、監督は「コルチャック先生」公開から数年後に、ユダヤ系ポーランド人とワルシャワゲットー蜂起とホロコーストの問題、それに対するポーランド人の反応を主題としたイエジー・アンジェイェフスキ原作に基づく「聖週間」(95)を監督している。この作品は、おそらく本作に対する批判への応答として制作されたものと思われ、実際「聖週間」において、ワイダ本来の姿勢に立ち戻ったのごとく、反ユダヤ主義的なポーランド人の姿も描き出している。とにもかくにも、この作品がカトリック映画作家によるイデオロギー論争、つまり数多くの評論家たちの心を酷くかき乱した要素があると言うことが逆に証明されたと私は思う。やはりこういった歴史、デリケートな作品を撮る際には、複雑極まる文化的、社会的解釈の層が存在するため、非常に正当化する側もいれば批判する側もいて、いつの世も争いばかりだなと思う。私はこの作品を大傑作だと思うが。


それにしても第二次大戦前夜のポーランドには、反ユダヤ主義の嵐が吹き荒れていて、コルチャックはパレスチナを訪問して移住を考えていたみたいだ。当時の手紙があって、それを読んだら色々と詳しくわかった。その手紙を引用してここに書きたいがやめておく…あまりにも長すぎるからだ。とは言う物の、少しばかり印象的だった部分を出したい。まず、〜私は叫びたい。子供たちにも1人の人間としての尊厳がある、と。当然のことだが、誰かが私に問うた、誰が、今日、人間の尊厳などと言うことを考えているだろうか…〜それに、〜私は子供たちが空腹に悩まされていることを知っている。それにもかかわらず多少なりとも私が食べられると言う事は恥ずかしい。疲れて生気のない子供たちの表情、私は彼らに微笑みかける。しかしそのような自分に対して吐き気すら覚える〜等だ。そもそもこれらを読むと1930年代にコルチャックにとって衝撃的な事件が3つ重なっていたことが判明する。いずれも政治的な圧力によるものになっているが、1つは彼の発行した子供新聞(小評論)から手を引かざるをえなくなった事。

もう一つは、ポーランド放送の子供向け教育番組(老博士のお話)の中止である。これは映画の冒頭で判明されることだ。反ユダヤ主義のためコルチャックの名前は公表されていなかったにもかかわらずだ。その冒頭の場面が、自由ポーランド大学での講義をもとにラジオで放送した場面であるとのことだ。どうやら89年に国連で成立した子供の権利条約は、ポーランドの原案に基づいたもので、その原案にはコルチャックの願いと主張、彼の著書"子供の権利の尊厳"(1929)から生かされているようだ。そして最後は、ポーランド人の子供たちのホーム(僕たちの家)と一切関係を持ってはならないと禁止されたことが、コルチャックによる衝撃的な3つの事件のようだ。このホームは、コルチャックとポーランド人マリナとが協力して設立したもので、彼女は貴族出身の社会主義者で、また当時のヨーロッパの典型的な婦人開放論者であったらしい。

死の危険を犯してユダヤ人の子供たちをかくまい、またコルチャックを救出しようとした。映画ではゲットーへの移転と、トレブリンカへの移送が始まった頃に出てくる女性である。2人は、2つのホームを1つの大きな家庭としてユダヤ人とポーランド人の子供たちが互いに相手のホームに泊まって交流を深め、友情を育てていくことを願っていたそうだ。言葉も宗教も人種も民族も、さらには国籍さえ異なったとしても、子供たちの世界に国境があってはならないのだと2人は考えていたみたいだ。しかしながら第二次大戦が始まり、ポーランドはドイツ軍の占領下に置かれ、ナチスの政策により50万近いユダヤ人が、巨大な牢獄ワルシャワ・ゲットーに閉じ込められたのだ。飢餓地獄の中で1年9ヶ月、コルチャックは200名の子供たちを守るため、人間としての尊厳すら投げ捨てて戦ってた。子供たちを救うためには、悪魔とでも対面すると言っていた。すごい人物である。

正直言って、この2時間余りの作品でコルチャックを語る事は不可能だと思う。しかしながらワイダはありのままの彼をたった2時間で見事に描いているのは凄いと思う。もちろん、彼の著作、手紙などを読むと本作には描かれていないありとあらゆる情報がまだまだ出てくる。監督が言うように、自分にとっての15年の課題であった本作は、渾身の力を絞って描いた感がある。先ほども述べたが、国会議員になって、国民のために仕事をして、コルチャックの名誉のために映画作品をすると言う過酷なチャレンジをしたのだから。しかも、コルチャックは戦争が終わったらドイツ人孤児の面倒を見ると言っていて、ナチズムの崩壊を予感して、一時期ゲットを解放の日、生の希望を夢見たのだろうとされている。しかしその日は訪れなかった。1942年8月の初め…いや、もうこれ以上言うとクライマックスのネタバレになるため言いたくても言えない。とにかく悲しい結末を迎えるが、人によってはそれは決して悲しさではなく救われる思いをする人もいるだろう。私がそうであった。本当にワイダには頭が上がらない。本当に彼には心の底からありがとうと言いたくなるほどだ。

それにしてもユダヤ人であるがために、ポーランド人の社会で貶められてポーランド人であるためにナチスに迫害され、いわゆるこの二重の侵害がやり切れない当時の人々の立場をうまくモノクロで描いている。この作品がカラーフィルムだと情景が全体的に印象強く、人物に目が届かないから、白黒だと効果を発揮していることがわかる。長々とレビューを書いたが、最後にポーランドの古都クラクフ市にある約7000点の日本美術品が眠っている国立博物館があるのだが、アンジェイ・ワイダが、第3回京都賞受賞した際に、授賞式の席上で、賞金4500万円の金額を基金として、クラクフに日本美術センターを建設したい趣旨を言っていたことが懐かしい。確かジャーナリズムによって広く報道されていた。そうすると世界の歴史上でも最も困難な道を歩んだポーランドが国の存亡をかけた時期において、日本の美術品を大切に守ってくれた事は非常に嬉しい。日本人として感謝のいよ表明したい位だ。だからポーランドと言う国が好きである。この作品をまだ見てない方はぜひともお勧めする。人生最高の1本になることを祈る。
Jeffrey

Jeffrey