Fitzcarraldo

長江哀歌(ちょうこうエレジー)のFitzcarraldoのレビュー・感想・評価

3.9
第63回ヴェネツィア国際映画祭(2006)で最高賞の金獅子賞を受賞した中国映画“第六世代”を代表するジャ・ジャンクー監督作。

お笑い第七世代とか、お笑い何世代はよく耳にするが…中国映画界にも第何世代とかあるのか…それは日本側が勝手に言ってるのか?現地でもそう言われてるのか?どちらでもいいが本人からしたら、そんないい気分はしないだろうな…




ジャ・ジャンクー作品でプロデューサーを務めてきた市山尚三が語る。

市山
「ジャ・ジャンクーの映画でロケーションは非常に重要な要素です。企画を立てるときには、ストーリーが決まった後にもうロケ場所を探しに行っているので、脚本の第1稿が出来上がったときにはもう主要なロケーションが決まっているぐらいです。とくにロケ場所が作品に大きなインスピレーションを与えた例として挙げるならば、『長江哀歌』でしょう。これはもともと劇映画を撮る予定ではなく、三峡ダムの建設によって沈みゆく町を映したドキュメンタリーを撮るつもりでした。
ところがそこで地方からの労働者のドラマや、さまざまな状況に出会い、即興的にひらめいて劇映画を撮ることになったんです。もちろんいきなりプロの役者さんは呼べないので、奥さんのチャオ・タオや、いとこのハン・サンミンのように、声をかけたらすぐ集まってくれる人を呼んで劇映画にしました。あの場所を見ていなかったらあの映画は作られていなかったと断言できるくらい、ロケ地からインスパイアされた作品です」

ドキュメンタリーを撮るつもりでいたのが、その土地から受けるインスピレーションで即興的に劇映画に…なるほど。だから全体を俯瞰してみると、まとまりがないというか、結局なんだったのか?と作品に通底するものを感じなかった。

ダムに沈む町に飲み込まれていく人々の何処かセンチメンタルな気分や空気感はパッケージとして、しっかりと包んで見せてくれているとは思う。

異国の人に、この土地の雰囲気を余す事なく伝えるだけでも相当ハードルが高いと思う。この点だけでも見習うべきところは多々ある。

最初の狙い通りドキュメンタリーならどうなってたのか?そちらも非常に気になるところ。



サイドAの主人公であるハン・サンミン演じるハン・サンミン。この人はジャ・ジャンクー監督のいとこだったとは…

役者にしては妙な体型だなと思ったが…やはり素人だったのか…逆にこの体型が炭鉱夫という職業に、かなりの説得力を持たせることに貢献していたが…


◯安宿

腰を下ろし兄へ電話するハン。
自分の耳の脂が携帯電話につき、拭き拭きするオッサン。

そこへふらりとパンツ一丁のクソガキが入ってくる。ブルーのブリーフ…
おもむろに机の上の煙草に火をつける。
大量の煙を鼻から豪快に吐き出す。
煙草を一本抜き出し、火をつけるまでの一連の動きに無駄がない。これは絶対に普段から吸ってるやつの動き。

腰に手を当て、威嚇するかのように煙を吐き出す。

クソガキのくせして一丁前に大人然とした振る舞いが笑いを誘うし、妙に懐かしい気持ちにもなる。

地方の寂れた町には、こんなガキいるよね。早く子どもの世界から脱したいと大人の真似ばかりして悪びれるガキが…


このシーンにとって、何の意味もないガキを登場させていることが面白いし、撮影中にふらりと入ってきちゃったかのような感じが最高である。しかも逆光になってて、クソガキの顔がよく見えないのも良し!顔が見えなくても、このガキの動きだけで憎たらしさは十分に伝わる。

ここは凄い好きなシーン。

こういうところは即興的でなければ生まれないシーンだろう。机の上では、こんなシーン絶対に書けない。物語に全く関係してないからね。

たまたま近所のガキが煙草を吸ってるのを見かけて、面白がって登場させただけだろう。



画面の中を常に何かが動いている。
手前に映る人物は最小限の動きなり、もしくは動かないのだが…後方で船が通り過ぎたり、話の筋と関係のない人がチラチラ動いてたり、もしくは環境音が動いてたり…周りで遊ぶ人の声だけうっすらと聴こえてたり…解体屋がコンクリートを砕く音が繋がってカットを引き継いだり…

これは基本かもしれないが、これがなかなか出来てない作品が多い気がする。



UFO…

なんで?

いきなり不穏な音楽とともに現れるUFO。
そして飛び去っていく。

このUFOが飛び去るところで、サイドAのオッサンパートからサイドBの奥さんパートへとスッと切り替わる。

このサイドBの奥さんを演じるのはジャ・ジャンクーの実際の奥さんであるチャオ・タオ。

オッサンが下手を見つめると、下手からUFOが現れる。
UFOが上手へとゆっくりと移動していくと、そのUFOを見つめているのは奥さんに変わっている。

しかし、このシーンは余りにも唐突にUFOが現れるから、そちらに気を取られすぎて、人物がいつの間にか入れ替わってることに余り目がいかない。見直してみると、あぁここでパートチェンジしたのかと分かるのだが…

初見では、ん?ん?UFO?なぜUFO?と、UFOにばかりに集中してしまう。

なのでパートが切り替ったことに気づかない。


だから、この奥さんこそが、オッサンの探す奥さんなんだなと思い込んでしまった。

オッサンがこうしてる一方、その頃…奥さんは…という感じで今度は奥さん側からの物語が始まったのだと勝手に思ってしまった。

そしたら…なにやら話が噛み合わない。全く別もの?別々のパートだったの?それなら、もう少し、分かり易くしてくれないと…そう思い込みながら見てるから、?ばかりに。

とにかく、人の名前とか町の名前とか、台詞だけで説明されても、こちらは覚えにくいから!町の名前と中国人名とごちゃごちゃになって整理つかない。

誰を探す。誰を探す。どこにいて。どこへいった。とかこれをカタカナだったり漢字だったり、台詞の中で語られても困る。

オッサンは奥さんと子どもを探してて…
奥さんが旦那を探してて…

この2人が前半と後半にパートで別れてたら、同じ夫婦だと思うでしょ?思わない?名前が違うでしょ?って名前なんかいちいち覚えねぇよ。

前情報を入れなすぎてもよくないのか…
あらすじだけでも掴んでおけば混乱することないからねぇ。

どっちがいいんだか…

字幕なしで見ても、たとえ消音で見ても、なんとなく伝わるものがより良い作品なのでは?

本作は消音で見たら間違いなく混乱する。
あの2人が夫婦だと思っちゃうでしょ?

見ている人に、誰が何を目的に動いてるんだなと見てるだけで簡単に判別できるほうがよいと思われる。



丹下健三が設計したような建物が…突如としてロケットのように発射される。

どういうこと?なにを暗喩してるの?

本作に流れる時間軸が把握しにくいんだけど、あのUFOと建物ロケットによって時間軸が歪んでいくのか?そういうこと?

いや…わからない。



環境音を遮断することなく、うまく活かしているのが素晴らしい。撮影のために周囲を黙らしてしまうのが日本的というか…よく見る光景である。「撮影中のためお静かに」とか貼り紙をしてしまう。関係のない音を入れないように。演者の台詞を際立たせるために。

逆に環境音を大胆に取り入れてリズムを生むように使っているところが、この映画の世界観を一層広げている気がする。さらに画面までも豊かにしていると思う。



画面の切り取り方と、カメラの動かし方が独特であり個人的な好みでもある。

ラスト近く、オッサンが山西省に帰ると仲間に告げるシーン。

みんな上半身は裸。

ここをゆっくりとカメラは横に動く。
主人公であるオッサンには余り向かず、周りの仲間たちばかりにレンズが向かう。

決して綺麗な筋肉美とはいえないオッサン連中の汚れた身体を、中世の裸婦像かのように切り取る。


ラストカット。

取り壊し中の建物と建物の間を綱渡りしている人を見つめるオッサン。

終わり。

なんだこの終わり方は?

不思議な映画だ。

背景をボカシた顔面アップという近年で本当に多いありきたりなカットは全くなく、顔に全く寄らないところに非常に好感を持てる。
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