YasujiOshiba

黄金の眼のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

黄金の眼(1967年製作の映画)
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イタリア版BDにて。これはよい。映像もすごいが、音楽がかっこいい。007ばりのギターのリフ。シタールのような楽器が鳴り響き、Christy (Maria Cristina Brancucci)の歌う『Deep down』が実にポップ。
https://www.youtube.com/watch?v=ClOg5D42_DU

さすがエンニオ・モッリコーネ。本来は音楽のための音楽(絶対音楽)をやりたかった彼だが、テレビ番組やポップスの編曲で糊口をしのぎ、やがて映画の世界へ。1961年にルチャーノ・サルチェの『ファシスト(Il federale』で「映画のための音楽」デビュー。以来、イタリア製ウエスタンやジャッロで頭角を顕してゆく。

モリコーネの音楽は、きちんと映画に合わせながらも、独自のひねりを効かせるところがポイント。最近出たサントラを聴いているのだけど、なかなか面白い。このころのモリコーネはパゾリーニの『テオレマ』(1968)のために、ジャズのスイングや不協和音を書いているけれど、その音楽に決して劣らない。

映像もポップだ。カメラの動き、カットのリズムが、色の選択、衣装、美術、画面の全体の構成がポップなのだ。冒頭、鳴り響くサイレン。白バイの車列が画面を横切る。巨大な政府。左右の建物の間の空間が、画面中央奥の消失点へのラインを引き、高層ビルのマット画が、それがいかにも架空の街だと印象づける。

政府の施設の門に流れ込む白バイ。ビルの窓から顔を出すのはミッシェル・ピッコリ。扮するのはジンコ警部だが、その軽さがよい。ピッコリの軽さの演技は、どこまでも表面的なアンチ・リアリズム。なるほど、これがコミックの登場人物なのか。

そのピッコリ/ジンコ警部は、政府の金を運搬する仕事を託されていて、冒頭の白バイの車列は偽札を運ぶおとりだとわかる。本物は外交官に扮した警官たちが運ぶ手配なのだが、その扮装を笑うべきだとモリコーネの音楽が教えてくれる。

本物の札束を乗せたロールスロイスが、シトロエンに扇動されて走り出せば、エレキのリフが鳴り響く。007さながらだが、そこはモリコーネ、そうだと匂わせながらもオリジナリティがある。だからカッコいい。007のギターリフがそうであるように、モリコーネのリフは怪盗ディアボリークの到来を予告する。リフに呼ばれるかのように、ふと黒いジャガーが姿をみせる。ディアボリークのジャガー。ショーの始りだ。

日本語タイトルは『黄金の眼』で、おそらくラストシーンから来たのだろうね。1968年の公開だけど聞き覚えがある。ところがバーヴァのBDコレクションの vol 1, 2, 3 ではカバーされていない。なぜこの作品がとは思うのだけど、バーヴァらしい残酷描写がない。検閲を恐れたデ・ラウレンティスから、暴力描写はくれぐれも誇張しないようにとのお達しがあったらしい。

しかしながら、せっかく検閲を逃れても、イタリア国内ではそれほどのヒットにならなかったという。バーヴァは、この作品の前に『Le spie vengono dal semifreddo(ちょっと寒い国から来たスパイたち)』(1966)を撮っていて、こちらはイタリア国内でバーヴァ最大のヒット。批評家はそっぽを向いた作品。でも、当時の人気者コンビのフランコ&チッチョによるトボけたスパイぶりと、ラウラ・アントネッリの美人秘書の登場で、おそらく観客がつめかけたのだろう。

この前作のヒットにより、大プロデューサのディーノ・デ・ラウレンンティスからのお声がかかたわけだ。バーヴァとしては、キャリアのなかで最大の制作費をもらい、イタリアで1962年に発表されて以来の人気コミック『Diabolik』を映画化することになる。この企画、紆余曲折があって座礁しそうだったものだが、そのたち直しが託されたわけだ。

1960年代後半のディ・ラウレンティスは、フェリーニの未完の大作『マストルナの旅』の準備中で、コミックの映画化としてジョン・バダム監督、ジェーン・フォンダ主演の『バーバレラ』もプロデュース。さらに頓挫していた『Diabolik』の映画化権も買取いとり、いかにもデ・ラウレンティスらしい攻めの映画制作ぶり。そういえば、『フラッシュ・ゴードン』(1980)も、リンチの『デューン』(1984)もこの人がプロデュースすることになる。

ところでバーヴァの『Diabolik』の撮影が始まった頃、同じスタジオで大作『マストルナの旅』を準備していたフェリーニは精神的な危機を迎え、すでに始まっていた映画を『8 1/2』さながらに投げ出して、デ・ラウレンティスを激怒させ、訴訟沙汰になっている。フェリーニはそんな危機のなか、今度は本当に病に倒れて生死を彷徨うのだが、やがてバーヴァの影響をたっぷり受けた、あの『悪魔の首飾り』を撮り、そこから『サテリコン』(1969)で大きな飛躍を遂げる。この飛躍がなければ『アマルコルド』(1973)は生まれなかったはずだ。

一方でこの『Diabolik』には、フェリーニのような作家性はない。悪く言えばスタイルだけの映画なのだが、そこがよい。思い出すのは、鈴木清順の『東京流れ者』(1966)や『殺しの烙印』(1967)だけど、ほぼ同じ時期の作品だよね。スタイルだけで歌舞いてみせるときの雄弁は、作家主義とか思想とかイデオロギーとか社会的責務のような、あの大きな物語へのアンチテーゼでもあるのだろう。

さらにいえば、ダークなコミックヒーローの生みの親であるアンジェラ&ルチャーナ・ジュッサーニ姉妹が目指したものもまた、そうした大きな物語へのアンチテーゼではなかったのだろうか。ぼくはコミックのほうは眺めたことしかないけれど、バーヴァの『Diabolik』を見る限り、このダークヒーローの動機に、大きな物語はない。たしかに金持ちや政府を相手に盗みを働く義賊なのだが、その目的は社会改革なんかではなく、ただ愛するエヴァ・カントにアピールするためだけなのだ。

魅力的なエヴァをさらに魅力的にして、熱いキスを交わし、あの手この手で喜ばせてやろう。ただそれだけのためにディアボリークは命懸けの盗みを働く。それにしても、エヴァ・カントとは、なんという名前なのか。哲学者のカントと、最初の女性イブ [ Eva ] から来ているという。まさに哲学的な楽園の美女。

だからだろうか。ディアボリークとエヴァのカップルは楽園から追放された人間たちの世界に価値を求めてはいないように見える。盗んだ札束をベッドにばら撒いてエヴァと愛を交わすための演出として、誕生日のために盗んだエメラルドは、その肌に乗せてしまえば、あとは海の中に沈むに任せる。

あの巨大な金塊だってそうだ。それは紙幣と兌換するために準備されたものなのだが、ディアボリークによる破壊活動で、政府がやむを得ず支払いに当てなければならなくなった金。そいつは、もちろん警戒されて移送されるものだから、ただそれだけの理由で盗み出すのであり、盗み出すこと自体が楽しみなのであり、金そのものにはほとんど価値を見ていない。

ラストシーンを思い出せばよい。金なんてものは、せいぜい金ピカの墓標や記念碑の素材にすぎない。あるいは、追ってから逃れるためのカモフラージュにする手もある。ようするに、金なんてものは、そんなふうにつかえばよいわけだ。

この軽やかさこそが、ポップでダークなヒーローのあり方なのだろう。そもそも人間をしばる貨幣とか金のようなものに、どんな価値があるというのか。せいぜい、愛を交わすベッドのクッション程度のものではないか。こうしてバーヴァのディアボリークは、貨幣なるものによって欲望を欲望するように歪められた堕落した世界を笑い飛ばす。人々の群がる紙幣、エメラルド、黄金などのアイテムの重々しい価値を冒涜し、その幻想の中心にはただ空虚があることを暴き立てながら、すべてをポップアートに変えていってしまう。

なるほどポップアートなのだ。それは、イデオロギーの時代のさなかに、イデオロギーからは最も遠い空間を開き、そこに空虚な欲望の運動を追いかけて見せる。そしてそれがチネマのポップアートとして成立するのは、ただひとえにマリオ・バーヴァという職人が、ただただ技術としての映画に奉仕しているからなのだろう。

追記:
イタリア版のBDによれば、エヴァ・カントには当初カトリーヌ・ドヌーヴがキャスティングされていた。

彼女は1967年4月20日ローマに入り、ディノチッタ撮影所でいくつかのシーンを撮ったという。ところが、バーヴァにもデ・ラウレンティスにもピンとこない。美しいのだがキスが上手くない。ディアボリーク役のジョン・フィリップ・ローとの相性も悪い。

決定的だったのは、あの有名な札束にくるまってのベッドシーンでヌードになることを拒否したことだ。こうして、一週間そこそこでドヌーヴはパリに帰る。ところが、その1ヶ月後の5月24日、ルイス・ブニュエルの『昼顔』(1967)によって、ドヌーヴの人気が爆発することになる。

いやはや、カトリーヌ・ドヌーヴの演じるエヴァ・カント、ちょっと見てみたかったよね。
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