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あねといもうとのこのネタバレレビュー・内容・結末

あねといもうと(1965年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

人の配置にテンポに街の風景がすごく良い、冒頭10秒で良い予感、子どもがまた絶妙、「はい!」の返事にありあまる元気、上野駅の人々、に紛れる倍賞千恵子と久我美子
と楽しんでいたら、最近の感傷的な気分がたたってまさかのラピュタモーニングで涙涙、、ひとを愛するということについて、、、、

ひとひとりを愛することは、ただ相手と、自分のなかで起こったことだとしても、そこには相手、以上の相手がいて、まして結婚となると、相手はひとりではないということを考えさせられる、改めて、
それは時代がどうとかの話ではなく、愛という事象に普遍的にまとわりつくものかと
もちろん肉親らをもたないひとを愛することもあるだろうが、ただそのひとがこのせかいにひとりで存在していたとしても、ただ「ひとり」であることはどんな人間でもあり得なくて
ちょうどいま読んでいた黒田三郎詩集を、映画が終わってまた開いたら、「そこにひとつの席が」でこういうおもいのすべてがあって震えた、すごすぎる~。。

節子のエピソードに、愛はこんなにも厄介なものなのかと思っていたところ、その相手も唐突に失われ
頼りの長男が死んで、節子になじられただ堪えるだけで何も言えない谷栄母から滲み出る様々な感情、一言では言えぬ思いに胸が疼く
それぞれがそれぞれに思いを抱えて生きているという事実が揺蕩うように進み、じぶんもそのなかのひとりで、あの子もあの人もきっとそうで、と、いつの間にかこころがもっていかれる
山村父がやっぱり娘を手放したくないように
でもそれはきっと寂しいというエゴも多分にあって、そのきもちも決して蔑ろにされるべきものではなくて…
ちづ子は芳枝の離婚話に口出したり、かと思えば芳枝がお節介だと言い放ったり奔放だけどそれも悪気があるわけではなく
姉たちのいろいろを見てきたちづ子のこれからもきっと波瀾万丈だろうが、それでこそ人生なんだろう、と、、
いまのところただ愛に酔っているだけの人生なのかも私は
とりあえず、もしも子どもができたらちゃんとアルバム作ろうと思う、
こ