ーcoyolyー

アレクサンドリアのーcoyolyーのレビュー・感想・評価

アレクサンドリア(2009年製作の映画)
4.7
今私キリスト教徒クソ!クソクソクソのクソ!というモードに入っているのでキリスト教徒が反知性主義者のクソ集団として描かれているのは溜飲が下がりましたね。

この映画ではキリスト教徒が議会襲撃するトランプ支持者みたいに描かれていた。

でもこういうのって古今東西どこでも起こっていることで、腐敗した、もしくはその腐敗を放置した傲慢な既得権益者と反知性主義者の衝突ってどっち陣営にも与したくない醜悪な争いで、私もヒュパティアのような振る舞いをするしかなくなるんですよね。

これ、キリスト教徒をクソに描くのは良いんだけど、ここまでクソオブクソに描けるのって最早キリスト教内部の人間しかできないよな、と監督の宗教気になってちょっとWikipedia覗いてみたら宗教は分からなかったけどもゲイであるという情報を掴んで、あー、とはなった。そりゃまぁキリスト教に思うところはあるだろうな。

新約聖書を読み進めれば読み進めるほど、こんなもん焼き捨てろ!としか思えなくなったんだよね。イエスの教えと似て非なるものというかその教えの真髄を変質させてしまっている原作というか原典レイプにしかなってないと思って。私この表現気軽に使えないバックボーンがある人間だけどそう言わざるを得ないくらい酷い仕打ちをしている。
イエスの教えについては特に引っかかるところなかったんだけど、21世紀に現状のキリスト教を見て、じゃあどこでこの教えが変質してしまったんだろう?と訝しがっていたら何のことはない、ヨハネとパウロの時点で変質していた。あの二人のせいでキリスト教おかしくなってるし、新約聖書はあの二人の声、ノイズが大きすぎて、クソデカボイスすぎてうるさくてかなわん。ヨハネ派とパウロ派の血生臭い権力闘争の書としか読めねえんだよ。私は自民党の派閥争いとかも見るの大好きだからその観点からは楽しめるんだけどその観点からしか楽しめないので、こんなの聖典でも何でもねえなと。

本当にイエスの教えに殉じた人たちはこんな書物必要としなかった。こんなもんに頼らなくてもその教えを胸に抱き生きることができたから。恐らくそうできていたのはマグダラのコミュニティの人々なのだけど、あのクソ本にマグダラの記述が不自然に少ないというのもそういうことで、彼女とその周囲の人々について書いてしまうと(ヨハネ派サイドもパウロ派サイドもこの点に関しては一致して)自分たちの正統性が揺らぐから極力存在を抹消しようとしたんですよね。あのクソ本、そういう薄汚い、小狡い姿勢がヨハネ伝以降はやけに目についてゲンナリする。

私は本当にイエスの弟子になりたいなら決して洗礼を受けてはならない、受けたならそれを棄てなければならない、と感じてるんです。あの変質した教えを忠実に守ろうとする集団の中に入った瞬間イエスから最も遠ざかってしまうように私には見える。だからイエスの教えに殉じるためならキリスト教という集団を捨てる覚悟ある?とひとりひとりに問いたいです。

ヒュパティアの処刑の一連のシークエンス、明らかにイエスのそれと重ねた撮り方をしていて、ユダヤ教徒もキリスト教徒も変わんねえよ、人間なんてそんなもんだよ、と投げてくるこの作り手の姿勢痺れた。この人大変に信用できる。ヒュパティアだって人格者だけど奴隷に対しては酷い物言いしていたのでそこ変に現代のやっすいヒューマニズム紛れ込ませるようなことなくて安心して観ていられました。

アレハンドロ・アメナーバル覚えておきたいです。
ーcoyolyー

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