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マトリックス レボリューションズの鑑賞者のネタバレレビュー・内容・結末

3.5

このレビューはネタバレを含みます

復習のために、マトリックス3部作一気見した。

思いついたこと列挙

・映像技術が半端ねぇ。これどうやって撮ってん?ってここまで惹きつけられる映画はなかなか無いのでは。

・救世主思想。ここでもキリストからは逃げられない。ネオが最初にネブカドネザル号に引き揚げられるところなんか、まんま「昇天」でしょ。(最後の十字架表現は露骨すぎる。もうちょっと隠して。)

・「デジャヴュ」とか「幽霊」とかをマトリックスの世界観の中で説明しようとする試み自体は大変素晴らしい。非常に哲学的。でも、その説明が雑すぎやせんか?

・キーワード「選択choice」。赤の薬か、青の薬か。この選択はまさに普遍的なもの。あなたならどちらを選択するか?(この選択の普遍性を強調すべきであり、それならばネオに選択を迫るシーンでモーフィアスのサングラスにネオを反射させるべきではない。これはネオだけの問題ではなく、“私たち”の問題であるのだから。)

・愛とはなにか。人間固有のものか。本作の主張は「愛とは人間固有の情動ではなく、その意味で単なる言葉に過ぎない。愛の本質は関係性connectionである」ということ。だからこそこの世界内ではプログラムですら何かを愛していた。
 この主張には反対。プログラムには目的が内在していて、その目的との関係を守るためにプログラムが行動するってのは分かる。でも、それって愛じゃないでしょ。Aという動作を実行するプログラムはまさにAしか行えないのであって、この点が人間とは異なる。人は誰かを“愛さない”こと(別の誰かを愛すること)が可能であって、だからこそその誰かを愛することを“意志”するんですよ。愛とは、制御不可能な本能ではなく、理念を追う意志である。(たぶんWachowski姉妹は同意してくれると思うが。)

・最も重要なのが「知know」と「信念believe」の対比構造。何かを知っているとは、その何かが現実に成立しているということを(伝統的には)含意する。一方何かを信じることにはそのような含意はない。知が現実性と関わるということは、まさにvirtual realityとrealityの問題と不可分。諸君は地球が丸いと知っていると言うだろうが、それが仮想現実であってもそう言えるだろうか。
 マトリックスは知の根拠を(無限に)破壊する。そこで、破壊された知の代替物として本作で提示されるのが信念。現実にどうであるかが問題なのではなく、私たちがどう信じるかが問題なのだ、とこの作品は主張している。私たちの態度が問題であるからこそ、私たちの「選択」が問題になる。
 この対比構造はセリフのレベルでも分析可能。プログラムたちは「知る」という言葉を多く使う傾向があるし、人間の方は「信じる」という言葉を多く使う傾向がある。最後にオラクルすらも「信じる」という言葉を使っているのは、やはり信念の重要性を示したいからでしょうね。
 ただ、モーフィアスはどちらの語も使っていて、これは知を諦めきれない人間の本性を表しているのかもしれない。そして、この点が重要。私たち人間は知を諦めきれないんですよ。いくら信念が重要だからといっても、それは確実な知を手に入れられないことの反発に過ぎない。少なくとも僕は「これは仮想現実ではなく真の現実である」と言える世界を生きることを望むね。現実には決して辿り着けないとしても、それには命を賭けて追う価値がある。

・最後に。マトリックス内で身体能力爆上がりしてんのに、銃のエイムだけ悪すぎやろ。なんでやねん。

“There's a difference between knowing the path and walking the path.”
--Morpheus
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