ひまわり

願い、空を舞うのひまわりのレビュー・感想・評価

願い、空を舞う(1996年製作の映画)
5.0
(随分前に別のところで書いたレビューの再掲)

実は、鳩が好きです。
『公園や、じん社などに たくさんいる はとを「どばと」といいます。もともと でんしょばと などとして かわれていた かわらばとが、にげ出して ふえたのです。日本中で 見ることができます。』(「ふしぎ・びっくり!?こども図鑑 とり」学研、より)という背景など、なんとも愛らしいではありませんか。また、マガジンハウスから出版されている『鳩よ!』という文藝書も、生きていく支えとして非常に優れた内容です。
さて、そんな鳩ではありますが、その愛らしさ故に、その存在を映画の題材として扱うことは大変難しいように思えます。ハリウッドが吐き出し続けた、駄作動物映画を考えてみればお判りでしょう。
彼らも実は動物を愛し、そしてその愛を分かち合うために、映画としての動物愛賛歌を作り上げようとしたのです。しかし、直接的な愛というものは往往にして適切な距離を見誤らせるものであります。
本来「美」として成り立たない物の過剰が「美」に転じることは確かにあっても、「美」の過剰は「醜」にしかなり得ません。

デンマークの映画監督、ビベケ・ガドが『願い、空を舞う』の中で描いた世界は、残酷な世界です。
上流階級に属する一家に生まれた少女クリスチナと、隣に住む失業中で鳩レースに情熱を燃やす父を持つ少女マイブリット。仲の良い二人でしたが、マイが可愛がっていた二羽の鳩を、マイの父が金を作るために売ってしまいます。そしてその二羽の鳩を買って、しかもマイの目の前で、「今晩のおかずはハトのローストよ」と言ってしまうのは、クリの母でした。それを非難するマイに対してクリが放った言葉は「あなたたち一家が暮らしていけるのは、私の両親のお陰よ!!」。
こうして仲違いしてしまった二人。ここからの彼女たちのやり取りは、幼いが故の少し残酷なやりとりで、「僕たちはこういう事を繰り返して、こうも窮屈な生き方を覚えてしまったんだな」と、わたしは少し感傷的な気持ちになってしまいました。
そんな二人の関係が修復するきっかけは、期待のホープ鳩・ビクトリアが鳩小屋の扉に挟まれて骨折してからです。この骨折を治療するためにいつの間にか力を出し合う二人。金を稼ぐために路上で音楽演奏を披露する二人のシーンはとても綺麗です。
傷が癒えたビクトリアの訓練を開始した二人は、クリの父が出張会議に出るのを知り、出張先で定刻通りに鳩を放すよう頼みます。
そして、小さな不幸が起こります。
鳩を託されたクリの父でしたが、会議がなかなか終わらず、とうとう定刻数分前を迎えます。社長の話の途中だというのに、クリの父は席を立ち、階段を駆け上がります。やっとの思いで定刻ぎりぎり、屋上へ到着。鳩を解き放つ。そして、解雇・・・。このシーンでの鳩のはばたきが綺麗で力強いのが、なんとも皮肉です。
物語は、もう少しの残酷さと、わずかな暖かさをもって進んでいきます。この作品で描かれる鳩は、表情も、感情もなく、ただただ生き物としての存在でしかありません。しかし、この禁欲的な描き方が、鳩の美しさを際立たせ、同時に、鳩という「美」に依存することなく、「家族とは」という問題提起を可能にしているのです。

力強く、そして美しく飛んでゆく鳩。しかし、彼らレース鳩は所詮、本能を利用され続ける存在であり、愛というものがお金と結びついてしまうことは、悲しいかな事実なのです。