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13回の新月のある年にのkuuのレビュー・感想・評価

13回の新月のある年に(1978年製作の映画)
3.8
『13回の新月の年』
原題 In einem Jahr mit 13 Monden.
製作年 1978年。上映時間 124分。
ニュー・ジャーマン・シネマの鬼才ライナー・ベルナー・ファスビンダーが、自身の伴侶アルミン・マイヤーの自死をきっかけに手がけた監督作。
原案・製作・監督・脚本・撮影・美術・編集の全てをファスビンダー自らが担当し、性的マイノリティの主人公の最期の数日間をセンセーショナルかつエモーショナルに描き出す。
ファスビンダー監督作の常連俳優であるフォルカー・シュペングラーが主人公を熱演。

男性から女性に性転換したエルビラ。
過去に女性と結婚しており娘もいるが、男装して男娼を買うような曖昧な性を生きていた。
そんなある日、一緒に暮らす男クリストフが家を出て行ってしまう。
絶望したエルビラは仲の良い娼婦ツォラに支えられ、育ての親シスター・グルドンのもとを訪れる。
妻や娘にも会い過去を振り返ろうとするエルビラだったが、昔の自分に戻れないという現実を突きつけられるだけだった。
さらにエルビラは、自分が性転換するきっかけとなった男アントンに会いに行くが。。。

ファスビンダーの映画の多くは、すべてではないにせよ、重く感情的な問題や個人的な絶望に陥った登場人物に焦点を当てている。
今作品もまさにそうで、視覚に拷問的で圧倒的なメロドラマ。
何?これって傾げてしまうとこも多々あったが。
ファスビンダーは、最初のフレームから最後のフレームまで、トーンも内容も完全に惨めな映画を創り上げたって云えるかな。
監督の初期の傑作『自由の代償』Fox and His Friends(フォックスとその友人たち)のタイトルで知られている(1975年)と同様、今作品は、1970年代のフランクフルトの陰湿で抑圧的な同性愛サブカルチャーを残酷な背景として、繊細な人物が愛する人々の手によって個人的に搾取され迫害されることに焦点を合わせてる。
しかし、『自由の代償』とは異なり、伴侶アルミン・マイヤーの死の精神と、今作品の構想時にファスビンダーが苦しんでいたと思われる罪悪感によって、前述の『自由の代償』の宝くじに当たったカーニバル従業員フランツのキャラが、残酷な苦しみに終止符を打つために抱いていた希望や脱出の約束という一般的概念は、ここでは一切排除されて、恥と窮乏に絶えず重点を置くことにすり替えられてる。
ファスビンダーは、冒頭から今作品の冷酷なトーンを確立している。
冒頭のヴィネット(演劇などの短い場面)やと、主人公の気難しいゲイ(バイセクシュアル)のエルヴィラ・ヴァイスハウプトが男装して、早朝に公園を歩き回り、取引を求めている。
そして、その "ジョン "は、同じようにマッチョな友人たちとともに、エルヴィラを殴り、あざけり、彼女は震えながら泣き、廃線になった線路の上に半裸で置き去りにする。
ここから、エルヴィラは足を引きずりながら狭いアパートに帰るが、元カレとの拷問のような激しい口論に突入し、またしても利用され、屈辱を味わうことになる。
映画はこのエピソード方式で進み、数日間にわたってエルヴィラを追いかけ、やがて彼女の本当の性格や個性、そして最初に発見した時のような人物を最終的に生み出すに至った彼女の人生における出来事を知ることになる。
妻と幼い娘を持つハンサムな青年が、太り過ぎでアルコール中毒のボロボロになり、身近な男たちやその周辺にいる社会的弱者から虐待され裏切られるようになった過程を知るとき、これらの出来事は、明らかに甘えや傲慢、盲目の愚かさの結果として、多くの過ちを犯したエルヴィラという人物に残酷で屈辱的であるに違いはない。
ファスビンダーの例に漏れず、今作品の演出は、登場人物と彼女の住む世界の感情を完璧に支えている。
彼女のアパートの狭い空間は、監督の閉所恐怖症的な演出、デザイン、構成によって、より一層牢獄的で圧迫感のあるものとなっている。
ファスビンダーは自ら撮影監督を務め、粒状の16mmフィルムで撮影している。
それがまた、なんちゅうか今作品が伝える荒涼とした無色の感覚に拍車をかけている。
薄暗い部屋、断片的な構図、ぎこちないカメラの動きなど、撮影の醜さは、映画作家の素人っぽさか、オイゲン・ベルトルト・フリードリヒ・ブレヒトを思わせるような方法で、登場人物や感情の背景から観客を遠ざけようとする意図的な試みか、もっと適切に云やぁ、ゴダールがブレヒトと彼の疎外劇を映画的に取り入れたと見ることもできるかな。
続く政治風刺映画テロリズムに関するブラックコメディ『第三世代』(1979年)と同様、再びファスビンダー自身が撮影を担当したこの作品では、型破りな撮影手法が、同様に我々を武装解除し、映画を見るプロセスをできるだけ困難にしようとする、さらなる要素に組み合わされてる。
ファスビンダーは、大きなタイトルとフレーム全体をゆっくりとスクロールするオープニング・テキストでフレームを覆い隠し、さらに不明瞭なイメージと断片的なミセ・シーンを使い続けている。
ファスビンダーはまた、会話の途中やシーンの文脈がすでに確立された後にシーンが始まるような、耳障りなカットを使用し、音や、音楽が不穏にバックグラウンドで流れる中で登場人物が互いに会話するような混乱した方法は、この解体や感情の混乱のアイデアを継続させるもので、エルヴィラとその友人が、実際の屠殺場を幽霊のように歩き回る伝説的なシーンでは、牛が生々しく処理され、モノローグでこの本当に悲劇的な人物の裏話がすべて語られる。
エルヴィラがファスビンダーの延長なんか、アルミン・マイヤーの擬人化なのかは不明やけど、解釈としてはそのような要素があることは確かかな。
また、操る敵役アントン・サイッツの描写には、監督自身のアンソロジー映画『秋のドイツ』(1978年)のセグメントにおけるファスビンダーの描写を想起させるものがあるのではないやろか?
個人的な告白や、グロテスクで忌まわしく、完全に消耗させるような鋭い自己検証という不快な感覚に満ちている一方で、パワフルで情熱的に実現した作品として、注目に値し、影響を与えるものと云える。
難解ながら惹き付けられる作品でした。
kuu

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