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次の朝は他人の教授のレビュー・感想・評価

次の朝は他人(2011年製作の映画)
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ウディ・アレンの映画のような登場人物や物語構成。
「都会」と「映画」とその周辺の人々。
華やいだ肩書きと、気ままに見える日々と。
でもその奥底にある「ままならない日常」と。
倫理や道徳とか知らず知らずに矛盾してしまう自分と他者との奇妙な繋がり。

映画にして見せられると、本作の主人公である「監督」の行動はウディ・アレンが演じてきたキャラクターのように、あるいはそれ以上に厄介だ。
腰が低く低姿勢で相手に接し、一応の礼儀をわきまえ、友人にも恵まれているし、なんなら恋人には不自由していない。
しかし本編で言及されているように主人公は利己的で、自分にしか関心がない。

別れた昔の彼女に家にフラリと寄っては事を済ますと「僕といるべきではない」と言う。
映画学生と気さくに飲んだくれては急にブチ切れて「オレを追い回すな!」と喚いて逃げる…。
一方で、独学でピアノを嗜み、芸術家らしい繊細さで「偶然」について講釈を垂れる。

このどうしようもなさ、共感のしづらさと、反面にある、それでも「こういうやついるよなぁ」という実在感。
と、誰しものの中にも身勝手さのリアリティ。
そして、ちゃっかりとそうやって生きてはいるが、決定的に本来の「映画を撮る」ことができていないという姿など。
日常のかったるさ、気怠さの中で、退屈に飲み込まれないためのロマンスへの打算が見事に表現されている。

「だから何なの?」と思わずツッコミたくなるようなどうでも良いと切り捨てがちな心のありようや日常をうまく切り取った映画だと思う。

ただ舞台はニューヨークではないし、出ている人間たちはハリウッドセレブではないし、という部分が「韓国映画」としての妙なリアリティを持ってしまう。
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