少し離れたところから、再び物語を紡ぎ直すように
スタジオに流れ続ける、監督トーマスに向けて投げかけられる留守番電話の音声と、スタジオからの眺めを撮り続けた映像。
そのどちらも確かな出来事の断片ではあるのだが、この映画はそのどちらにも近づかず、少し離れたところに立ち止まっている。
物語の断片は、流れ続ける時間(音声と景色)のなかで、鑑賞者によって再び紡がれていく。
(補足すれば、かなり鑑賞者の努力を要求する。ディズニーランドのアトラクションのように、口を開けていれば次々と、飽きないように絶妙なタイミングで、消費財をねじ込んでくるようなことはない。だが、優れた映画とはディズニーランド的アトラクションのアーキテクチャのことを指すわけでもないだろう。この映画はファインアートの文法に則っている。慣れれば慣れる。それは趣味の問題ではなく、内容と形式が不可分な関係にあるのだから、仕方ない。これはこのようにしか語れない。)
ひどく静かで、表面的にはなにも起こらない。しかし、それらの断片が紡がれていくときに、不確かな物語が朧げに像を結びだす。
私たちは(彼の)人生の存在を痛感する。
消費するために演出され、捏造された人生の物語は、この映画の前では恥ずかしさのあまり逃げ出すだろう。
大きな物語を手放したあと、恣意的で捏造された小さな物語を語るのではなく、かと言って物語そのものを諦めることなく生きようとする。そのとき、この映画はひとつのメルクマールといえるだろう。