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子宮に沈めるのmanacのネタバレレビュー・内容・結末

子宮に沈める(2013年製作の映画)
2.0

このレビューはネタバレを含みます

我が子の殺害事件が起きるたびに一定数の人が「母親一人の責任ではない」「母親への救済が必要」等言うことにいつも疑問を感じていた。
刑務所に入りたかったという理由で無差別殺人を行う犯罪者は「身勝手な理由」となるのに、なぜ「彼氏と結婚するために子供が邪魔になった」という理由で子供を殺す親は「身勝手な理由」にならないのだろう。
殺人者に共感しようという気は本作鑑賞後も鑑賞前も毛頭ないが、この映画を見て殺人を犯した母親を絶対的に擁護する人たちの気持ちが少しは理解できるかもしれないと思って鑑賞。
結論から言うと、やはり殺人を犯す母親の気持ちも、それを擁護する人たちの気持ちもビタイチ分かりませんでした。

子育てをしていれば一度や二度、いや、毎日毎時間我が子を疎ましく思う瞬間があるだろう。逃げ出したくなることもあるだろう。時には手をあげたくなることも。
だが、「そう思ってしまう」とそれを実行してしまうのは全く別の話だ。
そして実行してしまう人は、何かのきっかけがあって優しいお母さんから変わってしまうのではなく、元々我が子に愛情がなかったからだということが本作から読み取れた。

レビューを読むと、由希子は最初はいいお母さんだったという意見が多いが、私はそうは思わなかった。
全体的に「いいお母さん」を演じている自分に酔っていただけに見える。

偽善母親描写その1
多すぎる料理。
3歳と1歳の子供にしては食事の量が多すぎる。
そんなに食べないでしょ。
しかもロールキャベツ?
もちろん、幼い二児を抱えながら手料理を頑張る母親は履いて捨てる程いるだろうが、1歳と3歳のワンオペ育児となれば、現場は戦場のはずだ。
そんなにキッチンに長居はできないはずだが、のんびりお料理をしている。
その間子供はほっぽらかしだったのでは?
これらは、子供はそっちのけで「子供たちの為に可愛いキャラ弁や手の込んだロールキャベツを作るアタシ」に陶酔している由希子を表現しているのかと思われる。

偽善母親描写その2
お部屋でピクニック。
雨降ってました?前日に幸がてるてる坊主を作ってはいたが、雨は降っていなかったように見える。
なのに、なぜお部屋でピクニック?
一人で幼児二人を連れてのお出かけはそれはもう戦場に赴く兵士のごとく、戦略と体力と気力が必要です。
ただ近くの公園に行けばいいというわけではない。
自宅からの距離は?衛生的な多目的トイレはあるか?公園の規模は?公園前の交通量は?
3歳ともなれば、泣き叫ぶ1歳の長男を見ている一瞬の隙に視界から消えてしまうような年齢である。
マンションの1階に降りるだけでも重労働だ。
大量のキャラ弁を作っていいお母さんごっこはできても、それらの難関を乗り越えるのは由希子には馬鹿らしいことだったのかもしれない。
大体弁当等持たなくても子供が一緒だと大荷物になるものだ。あんな大量の弁当持っていくなんて無理。
なお、モデルとなった大阪二児餓死事件の母親下村早苗は子供たちを公園に連れて行ってはいたようです。
子供無視して携帯いじっている姿が目撃されています。

偽善母親描写その3
空々しい子供たちへの接し方。
由希子の子供たちへの接し方が、まるで普段はあまり会わない親戚のお姉さんが子供たちと遊んでいるような接し方なのだ。
文章力がなくうまく説明できないのだが、どこかよそよそしさがある。
どことなく、目の前の子供たちに対して我が子としての自覚がないような、まるで他人の子供のような接し方。
夫に捨てられる前から、既に我が子に対する責任感はなかったという表現だと思う。

偽善母親描写その4
編み物しながら資格取得勉強。
仕事と育児を両立させながら勉強は大変ではある。勉強をする時間が取れないこともあるだろう。
だがしかし、編み物をしながらとはこれ如何に。
子供たちが亡くなったのは夏なので、どう譲って考えても春である。服装から見ても冬ではない。
編んでいるのはマフラー。勉強する時間を犠牲にしてまでも編まなければいけないものだろうか?
譲って季節が冬だったとしても、編み物後回しにしてでも勉強に集中するべきである。
元素記号や英単語の暗記であれば単調な作業をしながら覚えるのは有効という勉強法もあるが、暗記をしているようには見えなかった。
作中では由希子のバックグラウンドは語られていないが、23歳で二児の母という設定。
モデルの下村早苗は中学時代から非行に走り家出を繰り返す不良少女だったので、恐らくろくに勉強をしていないと思われる。
正直、ながら勉強せずにがっつり参考書に向き合ったとしても、参考書を理解できるほどの基礎学力もないのではないだろうか。
資格取得自体が大変高いハードルである。独学で何とかなると思っている辺り、計画性皆無だ。
資格が欲しかったわけではなく、「育児と仕事に大忙しだけど勉強も頑張ってるアタシ」を楽しんでいたのだろう。
幼い子供が親の真似をしてパソコンのキーボードを叩く、スマホをもって通話する等と同じ感覚なのだろう。

偽善母親描写その5
編み物のかぎ針でセルフ堕胎。
かぎ針は大体長さが15cm前後。掌でかぎ針をしっかり掴んで膣に差し込んでいるので、せいぜい膣口から数cm程度しか中にかぎ針は入っていない。
堕胎は無理です。
妊婦の体は非常にデリケートで、物理的な刺激がなくても精神的な負担で流産することもある。
かぎ針で堕胎ができる可能性はないとは言わないが、本気で堕胎する気はなかったと考えるのが妥当だろう。
「追い詰められて我が子を殺害した挙句に、授かった新しい命さえもセルフ堕胎しないといけない可哀想なアタシ」に酔いしれた行動だろう。
ちなみに、下村早苗はこの時妊娠はしていませんでした。
妊娠していたのは苫小牧の二児餓死事件の殺人者山崎愛美です。下村早苗と同様に彼氏と遊ぶために子供が邪魔になり我が子を殺害しました。
こちらは中絶はせず、逮捕後も尚生む気満々でした。



全編を通して由希子が「どこにでもいる善良なお母さん」から突然豹変したわけではなく、最初から社会不適合者であることが伝わってきた。
だとしたら、この作品の訴えたかったことは何なのだろうか。
実話の映像化であればもっと事実に即した脚本にすべきであるが、様々な事件のエピソードの寄せ集めであり、恐らくラストの由希子が我が子を殺めるシーンは完全な創作。
鬼畜親は最初から鬼畜親だったと訴えるなら、基となった下村早苗の奇行を描いてほしかった。下村早苗は長女が幼いころから遊びに出かけて朝帰りをしたり、離婚の原因も自身の浮気と借金だった。
近隣住民や行政の在り方を問うているわけではないのは明白である。
山崎愛美は事件発生前から子供を育てられないという相談を行政に行っているが、結果なんの対応もなく事件に至っている。
その辺りは一切描写していないことから、問題提議しているわけではないだろう。
では、観客に何を求めているのか。観客はどのような感想を持てばいいのか。
ありのまま(創作が多かったが)を見せつけた上で、全てを観客に委ねたかったのだろうか。
扱っているテーマが日本社会が今目の前に突き付けられている重大な問題であるのにもかかわらず、中途半端な描き方に思えた。
「母親は悪くないもん!そうさせた社会が悪いんだもん!お母さん可哀想!」というならそれはそれで作品として構わないと思うが、それなら納得できるようなエピソードが欲しかった。
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