まぬままおま

神田川淫乱戦争のまぬままおまのレビュー・感想・評価

神田川淫乱戦争(1983年製作の映画)
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これはセーヌ左岸派に攻撃を仕掛けたピンク映画である。

というのは全く見当違いの言説ではあるが、浪人している彼の部屋には「ボヴァリー夫人」ーかの老人が論じているーや「セーヌ左岸」の言葉が確かに存在している。ここからヌーヴェル・ヴァーグからの影響を看取できるのだが、そもそも本作の監督は黒沢清である。そして助監督に水谷俊之や周防正行、万田邦敏、塩田明彦、協力に立教大SPPがクレジットされていることから、本作が立教ヌーヴェル・ヴァーグの記念碑的作品であることは言うまでもない。

巨匠の黒沢清監督のデビュー作が、ヘンテコと言わざるを得ないピンク映画であることは驚きである。しかし少人数の撮影スタッフで編成され、ロケーション撮影の中、これがフィクションだ!と高らかに宣言する自由闊達なイメージには思わず感嘆せざるを得ない。

そうはいっても話はよく分からんのです。自堕落なセックスしかしてない男女の関係がどうなのかも、その女と女友達の関係もよく分からない。川向かいの青年が母親と近親相姦をしているかも分からない。そしてそれを窃視して、「いかん、いかんぞ」と突撃して母の代わりにセックスの相手になるのも分からない。あまりにも欲望が(男の)性欲に直結していて、哲学的なフッテージがあるとは思えない。そんなことをピンク映画で言うのは「仕方がない」のか。

しかしマンションの管理人に追い出されて、階段をコメディーに転げ落ちたりといったフィクションとしか思えない人物の動きは面白い。さらに川を上流から下流への上下運動ではなく、往復するという水平運動によってドラマを展開して関係し、「戦わせる」のはみていて純粋に面白い。

ラストの性的欲望から突発的に殺人衝動に転換するのは、いかにも黒沢監督の作品のようだ。まだまだ黒沢監督作品はみれていない。もっとみます。

蛇足
本作のエンドクレジットはエンドロールではなく、黒沢監督のナレーションによって為されるのだが、そのナレーションでは「助監督 水谷俊之、周防正行、万田邦敏、塩田明彦」なのである。「allcinema」では助監督・水谷俊之、チーフ助監督・周防正行、セカンド助監督・塩田明彦であり、「wikipedia」(2024年5月17日閲覧)では助監督に水谷俊之(チーフ)、周防正行(セカンド)、塩田明彦(サード)、美術・万田邦敏になっている。何が正解なんだ。そして万田監督が助監督であっても美術をやっていたならば、浪人の彼の部屋に書かれる「セーヌ左岸」などの文字列についても納得だ。さらに部屋には「i wanted to achieve the realism」の文章も。リアリズムを成し遂げることを過去の願望に放擲し、フィクションを徹底的にやるのは痛快だ。またその「i」は万田さん自身なのかもしれない。

本作をみて思ったことは、黒沢監督と万田監督は反リアリズムな演出という意味で共通しているが、黒沢監督は欲望の描写も稀薄な気がする。それが突発的な殺人などの衝動へと向かう。反して万田監督は欲望を真面目に抽出し、人物の心理描写をしっかりやる。そのために1シーン1カットではなく、カットがしっかり割られているような気がする。このスタイルの違いが、二人の監督を別の道に歩ませたかは定かではない。

神田川を挟んでどちらが左岸で右岸なの?まぁカイエ派と左岸派を表象しているわけではないし、その二つが戦っていたわけではない。戦っていたのはスタジオシステムとの方だ。