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エクソダス:神と王のkuuのレビュー・感想・評価

エクソダス:神と王(2014年製作の映画)
3.3
『エクソダス:神と王』
原題 Exodus: Gods and Kings 映倫区分 G
製作年 2014年。上映時間 150分。
巨匠リドリー・スコットが、旧約聖書の『出エジプト記』に記されたモーゼの奇跡の数々を、最新VFXを満載に3Dで描いた歴史大作。
主人公モーゼにはクリスチャン・ベール、ラムセス役にはジョエル・エドガートン。
そのほかベン・キングスレー、シガニー・ウィーバーが共演。

紀元前1300年、栄華を誇るエジプトの王家で養子として育てられたモーゼが、兄弟同然に育ったエジプト王ラムセスに反旗を翻し、たった1人で40万人のヘブライの民を救うため、約束の地を目指す旅を描く。

※今回の感想は、小姑のよな重箱の隅を楊枝でほじくるよなモノになってます。
気分を害されましたら御許しのほどを!!🙇。

今作品は、主人公と神との関係から劇的な力のほとんどを引き出すことに成功した映画と云える。
しかし、リドリー・スコットは事実上他の登場人物を気にかけてない気がするし、物語の可能性を完全には引出してないように思える。
『出エジプト』は、エジプトの王子モーセ(クリスチャン・ベール)が、自分がヘブライ人で養子であることを知った後、兄のファラオ・ラムセス(ジョエル・エドガートン)によって追放される物語。
育った町から遠く離れた場所で羊飼いとして暮らし始めたモーゼは、極めて疑い深い男やったけど、神から禁じられた地とされる山に登ることを決意する。
そこで羊飼いは事故に遭い、神(アイザック・アンドリュース。彼はヘブライ語でメッセンジャーを意味するマラク (מַלְאָךְ) として信じられています。天使的役割でしょうが、ここやと神にしときます)と出会う。
神からヘブライ人を救い、約束の地へ連れて行くよう勧められる。
しかし、実際の出エジプトは映画のエピローグでしか描かれない。
『出エジプト』のストーリーは、アニメ『プリンス・オブ・エジプト』と似ているけど、焦点が異なっているかな。
両作品とも、神がエジプトの民に与えた10の災いに続く、ラムセスとモーセの衝突を描いているけど、今作品は、2人の兄弟の関係よりも、モーセと神の関係に重きを置いている。
リドリー・スコットは今作品を叙事詩のように構成し、舞台の壮大さを表現するためにワイドショットを多用していた。
巨大な彫像、ピラミッド、建設中のスフィンクス(スフィンクスは歴史学的にはモーゼが生まれるおよそ1200年前に建造された世界最古のモニュメント像)などが、人々の大きさを取るに足らないものにするのに役立っている。
同様に、短い戦闘はこのジャンルの慣例に従って撮影されており、カメラが一列に疾走する馬の頭を映すところから始まり、その後、地面に激突する馬のひづめに焦点を合わせて下降するショットがある。
災いそのものは視覚的なスペクタクルであり、何千匹ものカエルやイナゴがエジプトを襲うという衝撃的なシーンを特殊効果で作り出していた。
重要なんは、脚本が、災いを神の御業として明確に提示しながらも、その発生を自然に説明しようと努めていること。
たとえそれが、ヘブライ人が紅海を渡ることができた突然の干潮は、津波が近づいていたためだと示唆するなど、少々不合理に思えることがあったとしても、一見すると論理がなさそうな事象に論理を与えようとするこの姿勢は、主人公の世界観に似ているからこそ適切なんやろな。
モーゼは懐疑的な男として登場し、周囲の人々の信念のもろさを疑うことをためらわず、それらの信念をシンプルなセリフで繰り返し要約し、それらを支配する不条理を暴いていく。
例えば、息子が特定の山に登ることは禁じられていると告げたある瞬間、彼はその規則の恣意性を嘲笑し、自分の神は人が山に登ることを妨げているのかと少年に問う。
クリスチャン・ベイルはこの役を巧みに体現し、彼の態度が純粋な好奇心に満ちているのではなく、無礼に見えるのを防いでいる。
だからこそ、モーセの神とのダイナミックな関係が魅力的なんやと思う。
モーセは、神の行動が疑わしいと思えば、それに異議を唱えない。
例えば主人公は、なぜ神は奴隷の間ずっと無関心でいたのに、突然事態を解決しようとしたのか、とは問わない。
モーセは、罪のある者にも、罪のない者にも影響を与える神の無差別的な方法にさえ逆らう。
初の子を殺すという決定が彼に明らかにされたとき、モーセの最初の反応は虐殺に加担することを拒否することやった。
つまり、主人公は、誰が自分を助けてくれるのかを永遠に争い続け、彼の状況をより複雑にしている。
確かに今作品は宗教原理主義者を喜ばせる映画ではない。
ここでの神はサイコパスとしてだけでなく、幼稚化した姿でも描かれている。
神の登場シーンは常に子供の姿であり、たまに駄々をこねる少年である。
計り知れないほど強力で恐ろしいが、今作品で描かれる神は成熟しておらず、挑発に簡単に屈する。
クライマックス近くでラムセスが "どちらが殺しに有効か見てみよう "と云うとき、旧約聖書を知っている方なら、"キレられる "と思って笑うこと必至。
モーセとファラオの関係を凌駕するほど、この2人の力関係が物語の中心的な対立を構成しているから。
主人公は、いくつかの点で意見の合わない神に従わなければならないことに気づく。
つまり、神はモーセが目的を達成するために必要な悪であり、ほとんど武器である。
したがって、神が登場するシーンを監督がどのように撮影することにしたかを理解することが重要かな。
最初にモーゼの前に姿を現したとき、主人公はその状況が自分を狂っているように見せていることを自覚する。
そしてリドリー・スコットは、この考えを次の両登場人物のシーンに応用し、2人の話し合いの最中にカットを入れ、例えば何もない場所で石を持って1人で叫ぶ主人公を素早く映し出す。
二人の対立が物語の中心であるにもかかわらず、映画はモーゼとラムセスの戦いに沿って構成されている。
一方では、主人公がヘブライ人を扇動してエジプト人に反乱を起こさせ、攻撃を仕掛ける。
また、ある時はラムセスに民族の自決の概念を説明し、またある時はヘブライ人に支配者に圧力をかけて要求を呑ませる方法についてゲリラ的な授業を行った。
また、テロリズムとのアナロジーを拡大すると、もし、モーセがテロリストと見なされるなら、ラムセスが彼に対抗するために用いる戦略は、現在のアメリカの対テロ戦術に対する優れた批評となる。
2人のキャラ間の関係は映画を通して明らかに変化し、友情から完全な憎悪へと変化していくが、リドリー・スコットはこのアークにあまり重きを置かず、神との力関係や災いに関わるシーンに重点を置いている。
それだけでなく、ラムセスを演じるジョエル・エドガートンの演技もまた、その変貌ぶりをうまく表現していない。
台詞が示唆するものとは裏腹に、彼は最初からモーセに大きな愛情を感じているようには見えず、兄の近くにいるときはしばしば硬い表情と無理な笑みを浮かべているように感じた。
物語は2人の人物が愛し合っていたと信じさせようとしているが、2人が愛情を示すことはほとんどない。
このため、ファラオのアークはインパクトの多くを失っている。
他の二次的登場人物はこれよか悪く運命に見舞われ、物語上の役割をまったく果たせなかったり、果たした後は基本的に映画全体を通して忘れ去られたりする。
例えば、ラムセスの母親であるトゥヤ王妃(シガーニー・ウィーヴァー)のセリフは、映画全体を通じても半分ほどしかない(なんか上映時間の関係でかなり削られたらしい)。
ラムセスがモーセとの付き合い方について彼女に助言を求める場面で、彼女はモーセを好きになったことがないと述べるが、それまでほとんど口を開かなかった彼女が、ある時点で誰かと交流し、なおかつその人について意見を形成していたことに驚いた。 
このシーンの後、彼女は姿を消す。
アーロン・ポールのキャラもまた、何の役にも立たず、彼の顕著な特徴、『彼らは彼が痛みを感じないと断言する』さえもどこにもつながらない。
ホンでもって、映画の冒頭でモーゼに自分の本当の出自を語るヘブライ人の老尼(ベン・キングズレー)は、何の説明もなく後に姿を消す。
そのため、リドリー・スコットは映画の世界に興味深い人物を登場させることはなく、モーゼが民の運命について神と議論する場面でも、その人物に関心を持たない。
今作品の最初出来たのバージョンは4時間半にも及んだそう。 
このことは、映画のテンポの悪さや、物語を進めるために、特に冒頭で、視聴者が自分で推測できるような出来事を断ち切って、常に大きな省略を使用していることも説明できる。
たとえば、モーセがある女性を見つけたとき、彼は彼女と短い会話を交わし、次のシーンでは2人はすでに結婚している。
しかし、ラムセスの父であるセティ(ジョン・タトゥーロ)の死をカットするような省略は、さらに作為的に感じられる。
いつ、ラムセスはファラオになったんやねんと。
ミイラ化する前のシーンで、彼は明らかに病気でベッドに横たわってはいる。
また、クライマックスでは、モーゼとラムセスの2人が、脚本家が望んだからというだけの理由で津波から生還するという、他のアクションシーンのリアリズムとは逆行するシーンもある。
結局のところ、今作品は、モーゼと神という2人の主人公の間に魅力的なダイナミズムを提示する映画であるのはたしかやけど、しかし、リドリー・スコット監督は、彼らを同じように興味深いキャラで囲むことを忘れてしまったため、ストーリーを十分に活かすことができなかったと個人的には思う。
余談ながら、エジプトは、今作品がエジプトの歴史を歪曲し、ユダヤ人に対する人種差別的なイメージを提示しているとして禁止したと発表したそうな。 
文化省は、禁止が発表された数日後に発表した声明で、初めてその決定を説明した。
今作品は、世界の一神教で語られているモーゼの物語とは相反するエジプトの歴史の読み方を提示しているという。
エジプトは保守的な国で、イスラム教徒が多数を占め、キリスト教徒は少数派である。
検閲官は、エジプトとそのファラオの古代史を侮辱する意図的で重大な歴史的誤謬に異議を唱え、エジプト文明をユダヤ化しようとした。
同省によれば、今作品は古代エジプト人をユダヤ人を殺して絞首刑にする野蛮人として不正確に描いており、絞首刑は古代エジプトには存在しなかったと主張している。
また、ユダヤ人を武装反乱を起こした民族として『人種差別的』に描いているともいう。
同省によれば、宗教的な聖典はユダヤ人を弱く抑圧された存在として描いていると。
この声明はまた、神が子供として描かれていることにも異議を唱えている。
同省は、検閲委員会と考古学者からなる2つの委員会を招集し、映画を見直すと発表した。  
考古学者の委員会は、この映画が『エジプトの歴史についての誤った心象』を示しているとして、上映禁止の決定に同意した、と同省は述べているそうな。。。
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