ひろゆき

パーソナルソングのひろゆきのレビュー・感想・評価

パーソナルソング(2014年製作の映画)
3.4
銀幕短評(#528)

「内なる生(せい)」(原題)
2014年、アメリカ。1時間18分。

総合評価 68点。

“老い” を追う米国のドキュメンタリ映画。音楽療法で認知症を驚異的に改善し、介護施設の弱点をカバーする。なかなか興味ぶかいテーマです。

わたしの両親は確実に老いつつありますが、介護施設(いわゆる老人ホームですね、この映画にひんぱんに出てきます)には死ぬまで入らないと意思表明しています。りっぱなこころがけですね。むすことしては助かります。

ここで ひさしぶりにおまけをつけましょう、コーヒー連載でないものを。いつものチャラチャラしたテーマではなく、真剣勝負のものを。このエリアはひとによって考え方がおおきく異なると思います。わたしはじぶんの考えが正しいと思って文章に起こすわけではありません。あくまで個人的な見解です。それを読まれて気分を害されるかもしれない。聞くにたえないかもしれない。そのときは あなたのご意見をぜひ教えてください。わたしはいろいろなひとの意見を参考にしながら、このエリアにおけるじぶんの考えを補正したいと切に望んでいます。


(おまけ)

「老いについて、死について」

うまれたひとはかならず死ぬ。じぶんの寿命を生き長らえたすえに。 「人魚の眠る家」(#323)で書いたとおり、もし未練がある限り 死は納得がいきません。本人にせよ残されたひとにせよ。だから未練が去ったときに ほんとうの死がくる。

「A GHOST STORY」(#175、73点)で そう書きました。

老いるということと死ぬるということは別々の概念ですが、その性格上 セットで考える必要があることが多いですね。生まれる、成長する、活動する、弱まる、衰える。生命のこのステージの流れ(それはヒトにかぎりません)のどこかで、死はおとずれる。きっかり100%の確率で。生まれてすぐに亡くなる赤ちゃんもいれば、病気や交通事故や戦争や ときに自殺で亡くなるひともいる。老いるひと、老いたひと、というのは、そういう若年での死亡のリスクをくぐりぬけて、いわば天寿(まあヒトとしての生物学的な寿命)に近づいている人、その領域に足を踏み入れているひとですね。

老いるとどうなるのか。身体的なあるいは精神的な機能は不可避で低下していきます。典型的なものは 映画でも取り上げられていましたが、認知症(認知機能の低下)です。手足が不自由になり動けない、物忘れがひどい、思考能力が落ちる、意識が混濁する。この映画では 音楽療法を活用してこれらに対処します。認知症の老人にヘッドフォンをかぶせ、かれ彼女が若いときによく聴いていた音楽を聞かせる。すると、かれ彼女は魔法のように目を輝かせ、立ち上がって いきいきと踊りだす。この映画の主旨はここにありますね。やれば老いは防げると。これはこれで、すばらしいアプローチだと思います。

しかし、ここでわたしは うーむとうなります。なつかしの音楽に対するこの反応、家族に見せる つかのまの笑顔。これをいったいどう考えるのかと。「人魚の眠る家」で、水難で脳死状態におちいった おさなごに電気信号を送って手足を動かす、そういうシーンがありました。この音楽療法は、この脳死の女の子への人工操作とどこがどう違うのか、と不謹慎にわたしは考えます。

本人にせよ、家族にせよ、長生きしたい させたいという希望があることは理解できます。しかし寝たきりの老人に対する 胃ろう(くちから食物を取れないひとに胃から栄養を供給すること)はどうでしょうか。人工呼吸器を取り付けたひとと どう違うのでしょうか。意識のない人に何年も生命維持装置をつけることに意味はあるでしょうか。つまり生きることの意味合いはなんでしょうか。その尊厳はどこに向かうのか。

うちの家族は、わたしにせよ妻にせよ、互いに、またむすこたちにも意思表示をはっきりしています。もしなにか不慮の事故や病気で死がちかづいたとしても、いっさいの延命治療はしないでくれと。そこがわたしたちの寿命であると認識しているのです。

生きている意味はなんでしょうか。じぶんが楽しいこと、ひとと仲よくすること、社会の役に立つこと、ひとから愛されること、ひとに施すこと。そういうところでしょうか。もしそうであれば、それらの活動が衰えたとき、もうひとの役に立てなくなったとき、それがじぶんの身の引き際だと わたしは考えています。

なんどもいままで書いてきたように、毎日やりたいように生きる、しあわせを実感する、ひとの役に立つ というのが わたしのモットーです。だからあす死ぬ運命にあるとわかったところで、特段うろたえることはないだろうという自信があります(「グッバイ、リチャード!」「神様メール」おもしろかったですね)。つまり、まいにち毎日、未練を残していないのです。思い残すことがない。未練がないから 死に納得がいくのです。

はなしがあちこち飛んでまとまりませんが。 死生観というものは 極度にパーソナルなものですね。生に対する執着がつよいひともいれば、自然に身をまかせるひともいる。介護施設に入っても、体重(健康)管理のためだといって、食べたいおやつを食べさせてもらえない。世の中、本末転倒のことが多い気がします。ながく生きたからといって偉いわけではない、長く生きたからといって仕合せとはかぎらない(しあわせについては「オアシス」で弁じました)。ただ 老いたひとに敬意をあらわすべきこと、これは正しいと思います。

たしかにじぶんは大事でしょうが、まわりのひとまでを 巻き込むべきではない。わたしはそう思います。つまり自分で責任のとれる範囲で、つまりじぶんで負える荷物の範囲でだけ、じぶんを解放せよと。親に養ってもらっておおきくなり、社会に奉仕して感謝され、次代を背負う子らを育て上げる。生物的にはそこでもう生の役割を終えていますよね。そこからさらに 神輿(みこし)にぶら下がりつづけるのはみっともない。あとのことは あとのひとに任せて、そっと身を引く。それがわたしの感覚に合うのです。

ちょっと いつにも増して、まとまりのない語り口になりました。めずらしく書き直すかもしれません。こういうゆっくりした でも込み入った会話は、コーヒー屋さんのカウンターで ごいっしょしたいものですね。ご意見を ぜひ教えてください。お願いします。

(コメントをいただきました。
尊厳死について、「ミリオンダラー・ベイビー」で考えました。)
ひろゆき

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