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マンガ肉と僕 Kyoto Elegyのotomisanのレビュー・感想・評価

マンガ肉と僕 Kyoto Elegy(2014年製作の映画)
3.7
 女の目は男の何を見るためにあるのだろう。それを寄生し易さを測るのだとすると、代返を断らない、隣り合わせを断らない、居候さえ断らない、脅迫にも応じるなどなど。
 オスなんて強ければいいかというとそう単純じゃない。イエローストーンの黒オオカミなんかはケンカする前に負けを認めてしまうようなおたんちんだが、メスにはこの海千山千な変わり者の何が面白いのか、この流れ者に夜這いをし掛ける者が続出して気が付けばメスのほとんどが黒オオカミの子を宿してしまう。

 では、「僕」がなにか面白いかというとちっとも面白くないし、菌なんかくれて子種も提供しない。オオカミ以下な「僕」ではあるが、女三人のいっときの止まり木を提供してくれる。ところが、その彼女等はどこか愛に乏し気な「僕」を置き去り想った空に飛び去ってゆく。なかには心療内科経由なんてのもいるが、そんな症状を顕在化させるには「僕」的地点を経ずには行けないということである。これまで「あげまん」というのはあったが男版なら「あげ▲▲」であろうか。

 ところで寄生し易さとは、女自身が寄生を長続きさせるべく手を変え品を変え男を開拓するという事でもある。言い換えれば「女房に惚れ直す」という事だ。もちろん男の側の受けて応える資質もものを言う。この点を互いに上手に始めれば男女間には「愛」が生じ、いつか惚れ直すように深まりもする。
 しかし、彼女等はそうした本能的な働きがおよそ感じられない。おそらく、彼女等も「僕」同様、愛の働きに乏しい人間なんだろう。彼等、男化した?余儀なくされた?そう願った?言葉の選び方は難しいが、かつての肉女が女であることを取り戻そうとするのか、男化が巧妙化し女回帰を偽装するのか何だか分からない明日を迎えて、開拓のしようがない「僕」をまた置き去りにしてゆく。

 おそらく女には、「愛」を横に置いといて、まだ男化に関する研究の余地がたくさんあるのだ。しかし、男には愛の乏しさを豊かにどうにかする構想も、開き直って女化を目指す王道も見えてこない。
 ひとりの朝「僕」が身動きもならないのは8年間、女たちを見る目の奈辺を指すべきかにこだわり、自分は知った女のありように対してどうあるべきか答えを、というより、対象の多様性と自身の視座をあらためる能動性の駆使とに気付けなかった事への衝撃ゆえである。
 この見るべきこととは要点化できるものではない。稼いで食わせてその先のあれもこれも縦割り不能な生活でのこもごもに対面する機知の働きである。
 あの頭の悪そうな「僕」の、春琴のかんばせを焼いて、自らの目を潰して、こころからの、互いのこころだけで通じ合う愛を実証する?という驕った気持では話にもならない。傷害罪で法曹資格剝奪の暴論が8年変わらないと自ら認めるようなら、弁護士どころの騒ぎではない。ここらでクニに戻るのがいいかも知れない。帰り道、カネを払えば幾らでも話を聞いてくれる専門家に縋るのもいいだろう。心療内科は彼のためにも口を開けて待っている。
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