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溺れるナイフのkuuのネタバレレビュー・内容・結末

溺れるナイフ(2016年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

『溺れるナイフ』
映倫区分 G
製作年 2016年。上映時間 111分。
映画化された『ピース オブ ケイク』でも知られる漫画家・ジョージ朝倉の同名少女コミックを実写映画化した青春ラブストーリー。
新鋭女性監督・山戸結希がメガホンをとり、井土紀州が共同脚本。
キャストには夏芽役に小松菜奈、コウ役に菅田将暉と旬の若手俳優が揃った。

東京で雑誌モデルをしていた少女・夏芽は、父親の故郷である田舎町・浮雲町に引っ越すことに。
自分が求めていたものと大きくかけ離れた田舎での生活にがっかりする夏芽だったが、地元一帯を取り仕切る神主一族の跡取り息子コウと出会い、彼の持つ不思議な魅力に心を奪われる。
そしてコウもまた、この町では異質な夏芽の美しさに次第に惹かれていく。

『コウを追いかけて』 ピアノのイントロたまらんなぁ。
聴ける機器が御座いましたらどうぞ。

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今作品はオッサンには分かりにくいにもかかわらず(わかりすぎるとこもあったが)、最初から最後まで観ずにはいられない魅力があったことを考えれば、この先も印象に残る作品のひとつになると思う。
混沌の中に美しさがあったのは、主演2人の巧みな演技のせいだけでなく、その撮影と物語が興味をそそるメッセージを語っていたからやと思います。
少なくともWebで読んだ限りでは、これを観た方の中には、その曖昧さにもかかわらず魅力的だと感じており、菅田将暉と小松菜奈の映画での再会の『糸』を今さら知って、それも観てみたいと思うようになった。
当時はスルーしたが。 。。
夏芽とコウの陰と陽。
まずはなんちゅうても主役の二人。
菅田将暉演じるコウと小松菜奈演じる夏芽の並列性は、この映画にとって単なる美学以上のものを描いている。
ホンでもって、今作品のことをアレコレ観てたら
菅田将暉と小松菜奈が結婚してるやないかぁと知り(今さら)驚いたが、今作品を鑑みたら納得。
小松はもともと整った顔立ちやと思ってはいたが、 前髪から目元、口元まで、彼女の肉体には大胆さと暗さがあるって感じドッキドキした。
一方、菅田は、プラチナブロンドのエフォートレスな髪と、ソフトやけど印象的な顔立ちで、小松菜奈をかなりに引き立てている。
しかし、それとは別に、2人の性格も反映されていた。
コウは自由奔放で別世界のように描かれているが、村との歴史に縛られており(家柄が何度も出てくる)、決して自由ではない。
一方、夏芽はその美貌のために常に台座に乗せられ、その美貌に束縛されているように見えるが(彼女はモデルをやることが好きだったが、自分のためではなく、注目されるためだった)、実際には、それを本当に追い求めるかどうかの選択権を持っている。
どちらのキャラも、境遇か自らの選択によって檻に閉じ込められている。
そしてそれは、聖地と噂される場所に挑むという無謀さにもつながっていた。
それは、自分たちが認識されている以上の存在になりたいと願い、この挑戦を互いの中に見出したことを示している。
トロープ(文学や映画などの作品において、比喩や皮肉を用いた表現や、繰り返し登場する典型的なテーマや設定のこと)の観点で云うなら、彼らはお互いの躁病の夢かな。
二人は、この人ちゅうイデアに恋をした。
一方は儚くありたいと願い、もう一方は自分の居場所を見つけたいと願う。
『溺れるナイフ』タイトルの通り、水はこの映画の物語に大きな役割を果たしてる。
神社のそばの海であれ、二人が初めてキスをした小川であれ、そして、夏芽が正しい幸せを祈っていたときに降っていた雨であれ。
これらのほとんどの場面で、水は太陽の光を反射して表面上はきらきらと美しく輝いているが、実際は暗く濁っていて混沌としている。
これは夏目とコウを見事に映し出している。
二人は偶像崇拝と云えるほど神秘的にお互いを見ているが、お互いの中にある闇を本当に理解していない。
二人はお互いをきらきらとなんて表現した。
海の波のきらめきや小川の静けさにも似ている。 実際には、二人とも人々の期待や認識、そして自分自身の消耗した感情に溺れている。
若さや壮大な愛に溺れるということについて、極端でありながら親近感を抱かせる作品であることは間違いない(それが健全であるとは云わへんが)。
今作品はまた、神々が定めた運命や宿命という考え方にも重きを置いており、二人が出会うように仕向けられたのは、お揃いのブレスレットに象徴されるように、天がそう命じたからだという説も成り立つ。
そして、二人の運命を左右させたのが海の神である以上、二人の関係の最も重要な瞬間に常に水が存在するのは必然やった。
コウでさえ、初めて夏芽を海辺で見かけたとき、まるで夏芽の到着を待っているかのよう。
水の比喩をさらに押し進めると、夏芽が暴行を受けるシーンでさえ(ここは胸くそ)、エレメントの役割が常に存在していた。
水の究極の対極にある火祭りによって、二人の至福の幻想は永遠に変わってしまった。
コウが夏芽を見つけることができたときにも水は存在し偽りの希望を与えたが、ストーカーがコウを殴りつけ、夏芽を追いかけたときに打ち砕かれた。
このシーンは、賑やかな火祭りと並置され、二人は涙を流し、無力で絶望的であった。
自分たちは強くもなく、無敵でもなく、完璧でも美しくもなく、結局はただの人間なのだと、2人が抱いている幻想に幻滅した瞬間やった。
それでも、こうした一連の出来事の後でも、二人は互いを別世界の存在として、盲目的にバラ色のレンズを通して見ていた。
しかし、変わったのは自己認識。
彼らはもはや、自分たちが崇拝するこの他者と一緒にいるのがふさわしいとは思っていない。
日本映画がレイプや暴行を、キャラを成長させるため、あるいは筋書きのための道具として描くのがあまり好きではない。
他の多くの日本映画でも同じようなパターンが描かれている。
ここは今作品の欠点のひとつであることを指摘しておきたいかな。
しかし、被害者が経験するトラウマや社会からの否定的な期待を生々しく(痛々しく)描いている点は評価したい。
また、このような悲劇的な事件を踏まえて、大切で愛する人と重荷を分かち合えない苦しみのある種の真実を示すことにもなっている。
今作品には象徴がたくさんあるが、ナイフ!この象徴は、夏芽を守れなかったコウの重荷を表していると思う。
彼は危険な群衆と一緒に走り、ナイフを振り回したが、決してナイフを使わなかった。
それは、夏芽を守るという約束が実現しなかったことを象徴していた。
夏芽は、コウがそのようなものを持ち歩き、ずっとコウを待っていたと主張し続けることを滑稽に思っていた。
ふたりはそれぞれのやり方で事態に対処しようとしていた。
一方は一緒にいることが一番の癒しやと考え、もう一方は強くなることを信じていた。
コウがナイフを夏芽に渡したのは、自分が何をしても、夏芽が何を信じても、彼女の痛みを取り除くことはできないという諦めの表れだったに違いない。
しかし、この瞬間も、ふたりは互いの認識に幻滅していない。
いかに盲目的で理想主義的な若者の愛が描かれているか、そのピークに達している。
このシークエンスの後、もはや水が2人をつないでいないことは明らかやった。
次に2人が再び交わるのは火祭りのときで、そこで事態は丸く収まる。
このイベントは2人の重荷と苦悩を象徴するものであり、ストーカーが本当に再び現れたのかどうかは当初不明やった。
面白いのは、このシーンの前に、夏芽が自分のブレスレットを見ていること。
しかし、コウが祭りで踊っているシークエンスでは、コウがそれを身に着けていることは明らかやった。 最初の火祭りの時に壊れたことを考えると、それがコウの(元は夏芽の)赤いブレスレットであることはありえない(それがまた、二人のつながりの神秘主義に拍車をかけている)。
神楽のシークエンスでは、コウがそのブレスレットをつけている。
それは彼の他の衣装から目立つことを考えると、見逃すことは難しかった。
個人的な理解では、このブレスレットを交換したときに交わした約束に従うかのように、夏芽がコウに自分を救ってもらいたいという願望をシーンの織り込みで表現していた。
夏芽が夢を見ていたわけではなく、ストーカーが実在していたことが明らかになったとき、ついにこの2人のキャラが闇に飲まれるのを見た。
また、夏芽が彼が踊っているシーンを想像していた時とは違って、コウは実際にはブレスレットをしていなかったので、夏芽が甲の中に見ている強さと激しさは、すべて彼女の頭の中にあるものだということがわかる。
実際の一連の出来事から、コウは本当はブレスレットをしていなかったことがわかり、コウの激しいイメージはすべて夏芽の頭の中にあったことが証明された。
ストーカーが自ら命を絶っただけでなく、夏芽が、その神秘性ゆえに憧れ続けてきたコウを堕落させたかったから、ストーカーが悔い改めることなく死んでしまったから、コウがまた夏芽を守れなかったから。
ここでもまた、二人は何度も何度も、それが崇高な力によるものであれ、自分たち自身の境遇によるものであれ、お互いが見ているほど完璧な存在ではないのだと思い知らされる。
夏芽が目を覚ますと、コウの姿はどこにもなく、カナ(上白石萌音が意地悪な役を巧く演じてた)だけが『二度とコウに会うな』と云っていた。
血と果たされなかった約束に染まったナイフは、二人が初めて出会った場所と同じ海に永遠に消えてしまった。
コウに何が起こったのか知る由もない。
しかし、次のシーンでの夏芽の姿は、ナイフが二人を結んでいた絆をも断ち切ってしまったかのよう。
結局、夏芽はようやく自分の居場所を見つけたよう。
彼女が自分の仕事に本当の幸せと満足を見いだしたのかどうかは不明だが、自由と終止符を打ったことは間違いない。
ラストのどんでん返しは、再び水を見るような切なさと希望に満ちていた。
しかし、海沿いを走っていたときと、海の上を走っていた現在とでは、視点が変わっている。
それは彼らがその記憶からどれだけ離れてしまったかを示している。
それでも、若い恋につきものの理想主義の中に常に存在する、希望的観測に満ちていた。
二人がトンネルに入ったとき、ついに海が消えてしまうという結末は、ほろ苦い結末にもかかわらず、二人がお互いに何かを意味し、あの日海で出会わなければ今の二人はなかったということを思い出させる。
どーでもエエが、暴行ストーカーより写真家の方が個人的にはキモかった。
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