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オルメイヤーの阿房宮のotomisanのレビュー・感想・評価

オルメイヤーの阿房宮(2011年製作の映画)
4.1
 金鉱王の婿に来い。それを真に受けてあんな緑の魔境にやって来たオルメイヤー。娶った王女は金鉱王を目指す山師リンガード船長の養女でマレー人、そういえば女というだけで名前も聞いてなかった。
 緑のモノが死んで腐る間もなく生えて来て足の踏み場で確かなところは一寸もなく水浸しでないならぬかるんでる。こんな奥地の交易所に据えられて日々の凌ぎは義父の船便の荷扱いだけ。逃げ出そうにも蓄えの余地もなし、逃げますと気取られたらその船にも乗れまい。
 これのどこが阿房宮だ?すくなくともあんな口車に乗る方が今どき阿呆だろう。しかし、フランスでは2世紀この方この種の阿呆に陥る食い詰め者、はみ出し者、野心しかない者がひきも切らないらしい。だが、いまさら宗主権もとっくに無くなったアジアなのか?そこが原作小説から一世紀半の何時とも知れない時代がさらに緑のモノに覆われて訳も分からなくされている。

 あんな男でも妻を娶れば子ができて、そんな男だから育て様というか子の扱い様が分からない?パリなら児童相談所と裁判所が親権剥奪にてきぱき動いてくれるだろうに。
 代執行する山師の船長は混血孫娘ニナを緑世界の獣類もどきから二本足で歩くレディに磨き上げてくれるというが、当の自然児は怒りと共にそれに断固拒絶を構える。しかし、それでは突破不能と分かれば、次いで全てに優越する学業成果を挙げて形勢逆転を目指す。
 ところが結果知れたのは街場の学校社会が捉えるのは個人の資質の如何ではなく、ニナのマレー系である事、そして彼女を低く見る階級制とそれが揺るがないという事だけ。白人教育を受容して順応すべき身の程を知れと告げられる。
 阿呆な父親とは知らないニナへの放任ついで、今度は学校任せでニナがレディになってくれれば、金鉱王を継いだ暁には晴れてパリ凱旋も叶い、そのお供、レディ・ニナの手を取ってレッド・カーペットを移動できると思ったとしても、それはオルメイヤーの阿呆の身の丈というべきだろう。

 以上が物語の前提で、金鉱のきの字も出ないままその後山師な船長の義父は病没、ニナは退学処分と同時に喫煙習慣のある成績優秀な自然児に逆戻り。山師を引き継いだ素人オルメイヤー氏はそれ以上没落の余地もなく義父に替わってニナに翻弄される日々が始まる。
 母親似で白人文化を蔑視する無感情の眼とおそらくこころを備えた娘はやがて山師を支援したいと申し出たお尋ね者な現地の若者ダインに靡き始めるが、オルメイヤー氏はそれを妨げられないし、ニナの父親に対する反発に受け止めの姿勢も対抗も示せない。この危機は氏にとってレッド・カーペット喪失以上にこの魔界での唯一の白系人の喪失でもある。
 原作者コンラッド時代のフランス人とオルメイヤー氏の違いは昔の人が昆虫食のレシピを幾つも考案し孤立下でも立ち退かない意気込み、いわば背水の構えでアジア経営に取り組んだのに対して氏が万事義父頼みの無為に徹した事だろう。この「頼みと無為」の本源は氏の内にあり、それは本国フランスが育んだ?そう疑わせる証拠は監督が示さないだけだろうか?

 そんな氏のまさにそのまんまな衰弱が娘を奪うダインを制する気力を出させるはずもないが、ダインもニナもそんな氏をどこか気遣うようで、この物語が単なる実力だけがまかり通る場ではない事を示している。
 奪うのか取り戻すのか?自立を高めるアジアとそれを許さざるを得ないフランス、あるいは旧宗主国欧州との奇妙な拮抗が緑の魔境から場を移して、かくも清々しい海陸と気圏の三境まで三人を導いて行く。
 あんな美しさが事の決着場であるはずがないと監督を信じる者なら承知している。だから、それが殊更愛おしくもなる。
 ふたりに勝手に泳いで行けと促す父親は再びあの魔界へ戻ってゆく。ほかのどこに行けばいい?だが、緑は死んでも幾らでも生え代わるが、緑に窒息するオルメイヤーを誰が覚えてくれようか。しかしそれでもあの場を離れれば再びニナに会う事は叶うまい。
 ダインが早いか氏が早いか、先に死が見舞う事を賭けるように居付く地獄からダインを殺すどんな指令を出せるだろう。それよりも根深く築かれた主従関係は人種間対立やアジアの復権をものともせずに船長の配下を暗殺へと導いて止まないのかもしれない。

 結論は奇妙にもダインの重しを取り除かれたニナがいかにも自然に「アベ・マリア」と歌い出す忘我にも似た姿であった。
 お前がニナであり、ダインの何かでもオルメイヤーの何かでもさらさらないのだと知らしめたのは意外にもあの敵対的な寄宿学校において、自然児の意地と才能の全開がそこで可能になったがためである、と告げるような話だ。
 ただ、ヒトには母権制もなかったし、サモアの思春期も誤りだったしとされるこの時代、女は男に依存する局面が否応なく多々生じて、また、若いニナの反抗心と放縦を縛り過ぎない、というよりそれへの打つ手を見出せないオルメイヤーなんだが、にもかかわらず批判的にふたりと宥和し、見逃してゆく身を切る態度でこのきつめな娘への精一杯な干渉をあの三界の果てで解くのを親父の足搔き、確かに何もできない俺だけど最後だからそうさせてくれと強調するのだろう。

 だが、親父のそれがなにかの足しになったかどうか?誰にもニナの中の親父の痕跡を気取られないようにして、解放ニナ的結果を巻頭で真っ先に示し、巻末、廃れ弱りゆくオルメイヤー氏には何ひとつ教えないところに監督の息遣いを感じるだろう。
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