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ファイナル・カットのKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

ファイナル・カット(2012年製作の映画)
2.5
[魂の抜けた陳腐な恋愛物語] 50点

映画のファイナルカットだけで物語を構築していく鬼畜縛りなのかと思ったらそういうわけではなかった。それでも、映画の断片だけをつまみ出して犯行声明文(バンブルビーでもいいや)みたいに別の文脈を構築していくのは、映画好きとしては堪らないものがある。特に、この手の作品は作り手の鑑賞作品に依存してしまうので、ハンガリー人らしくハンガリー映画をサブリミナル的に投入しているのは個人的に嬉しいポイントだった。ケイリー・グラントとライザ・ミネリに挟まれて『シンドバッド』のラティノヴィッツ・ゾルタンが登場し、遊園地のシーンではハンガリー映画史上伝説的な『メリー・ゴー・ラウンド』のトゥルーチク・マリが登場し、男女の出会いには『私の20世紀』のドロタ・セグダが登場するのだ。最高じゃないか。

最近でも『Just Don't Think I'll Scream』『★』『State Funeral』、少し遡れば『The Green Fog』『Revue』『死に至る星条旗』のように既存の映像作品を別の文脈に組み替える作品は存在し、それぞれに監督が勝手に縛りを加えていたが、本作品にはそれがない。それによって普遍的すぎる物語が生成されてしまったため、"映画って結局こんなものでしょ"と単純化してしまっているように思えた。結局、映画は単純化されたプロットを物語ることだけに終始してしまい、再構築の楽しさとの化学反応が起こっていないのだ。これじゃあバビ語喋ってるの聴いて元の文章を推測するってだけじゃないすか。モンタージュ映画の限界点を見せつけられているようで悲しくなってくる。その点、『めまい』の再構築であるとか、無職になった現状を語るとか、アメリカの歴史を再構築するとか、そういった共通認識の下で別のものを再構築する方がより高次の議論が出来るのだろう(それはそう)。

あと、この映画には思想が感じられなかった。監督が映画の中にいないみたいな感覚的な部分から、連想ゲーム以下のレベルで繋がれた動作線、切り返しに至るまで、まるで魂が抜けているかのようだ。ロズニツァのファウンド・フッテージものや『The Green Fog』はプリミティブな形のモンタージュ理論を実践していたが、本作品は意味もなくシーンを細切れにしすぎているし、一つの情報に対する映像も多すぎる。

キャバレーのショーを観るシーンとかボーナスステージみたいに詰め込めるだけ詰め込んだ感があって笑える。別に400本詰め込んだからって安くなったりするわけじゃないよ(寧ろ権利関係で色々大変では)。個人的には全シーンを解説できる人を隣に置いて、どのシーンが何の作品か教えて欲しかった。私はこういう固有名詞に激弱なので激甘評価を付けているが、正直あんまりハマらなかった。

※追記
黒人が全く登場しないという指摘を見てなるほど確かにと納得しつつ、主人公たちが白人男女という概念であることをモンタージュで示すため、黒人を登場させるとそれが掴みにくくなってしまうから意図的に排除したものと考えた。同時に、それほど白人同士以外の恋愛が描かれた映画が少ないという批判の裏返しなのかもしれない。

※追記2
思い返す度に腹が立ってくるし、どんどん熱が冷めて評価も落ちてくる。
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